言わなきゃいけない事
「なぁに、お父さん、お母さん。改まって話があるなんて」
娘が、二十歳になった今日。言おうと決めていた事がある。
「とりあえず、座りなさい」
お父さんに促されるままに、リビングに座る娘。
いつもなら、テレビを観ながら笑い声をあげるような愉快な家庭なのだけれど、楽しい一家の団欒の時間は、ひとまずお預け。
私達のピリピリした空気を察したのか、娘も姿勢を正して、私達のこれから話そうとする内容を真剣に聞こうという準備を整えてくれている。
娘も、もうだいぶ大人になってくれたみたい。今ならこの事を打ち明けてもきっと大丈夫そうだ。
お父さんは娘の本当の父親じゃ無い。
本当の父親は、娘が生まれる前に事故で亡くなった。
訃報を知らされた時の事を、今でも鮮明に覚えている。
これから一生幸せにすると誓ってくれた人が、呆気なく死んでしまった。残された私、これから生まれてくるこの子にはもう、お父さんはいない。
両親や、彼の両親には、精一杯サポートするから、何か困った事があればなんでも言いなさいと言われていた。
しかし、生まれてくる前からシングルマザーとして、子供を育てる事が決まっている不安と焦燥。彼を失った悲しみが私の心を蝕ばみ、両親達の言葉は、あまり届かなかった。
私の悩みはそんな高尚なものじゃなかったから。
中絶してしまおう。何度もそう思っていた。今ならまだ、私だけでも全ての責任を放り投げて逃げ出せる。私を置いて先に逝ってしまった彼が悪いんだと、毎晩枕を濡らしながらお腹の子に謝り続けた。
もう私の精神は限界だった。そんな時、出会ったのが今のお父さんだった。
お父さんは、絶対に居なくならないと、まず約束してくれた。私を不安にさせない為に。そして、常に励ましてくれた。
何よりも嬉しかったのは、中絶する事は悪い事じゃ無いと、言い切ってくれた事だった。
私の幸せなくして、この子は幸せにはなれない。本当のお父さんだって君が苦しみながら子供を育てていく事を望むはずはない。
そんな言葉をかけてくれた人は一人だっていなかった。
私は一気に心が軽くなった気がした。
それから、娘が生まれるまで、一度だって中絶の事を考えたりはしなかった。
私の幸せは、この子がいてこそだと、思えるようになっていたから。
そして、私とお父さんは結婚した。
あれから気づけば二十年。長い年月が経って、もう娘も立派な大人。
私もお父さんも、老眼が気になる歳になってきた。
きっともう大丈夫。言い聞かせるように心の中で呟いた。
「優子、私達は何があっても家族よ」
「何言ってるの、私達は何があっても家族。当たり前だよ。こんなに長い時間一緒に過ごしてきたんだから」
「……」
娘は満面の笑みで私達を交互に見つめた。
こんなに純粋に育ってくれた子に秘め事をしていた事に罪悪感が溢れてくる。
そこから暫く沈黙が空気を支配した。みんなの覚悟を整える為の時間だったんだろう。意を決したのか、ゆっくりと、お父さんが口を開いた。私も、恐らく娘も覚悟はできていた。
「実はな、お父さん……本当のお父さんじゃないんだ」
「……」
娘は何も言わずに、お父さんに言われた言葉を咀嚼して、飲み込むように、下を向いた。
「あのね、別に嘘をついていたわけじゃないの。ただ、必要の無い重荷を早いうちから背負わせてしまうのはどうかって言うことで、大人になった今言う事になったの」
きちんとフォローが出来ていただろうか、娘の表情からは、何も読み取れない。
やっぱり、こんな事は黙っていた方が良かったのかもしれない。
「あのね、お父さん、お母さん。私からも話があるの」
娘がふっと顔を上げた。その顔は、さっきまでとは違い、何か決意めいたものを感じた。
「私、全部知ってた」
心臓の音が、一瞬聞こえなくなった気がした。
「……え? どういうこと……?」
混乱して、オロオロしている私に、娘はぽつりぽつりと話し始めた。
「幼児期健忘って知ってる? 三歳以下の時の記憶が無くなる事を言うらしいの。で、それは大半の人には起こるらしくて、私、実はそれ、無かったんだよね。だから、赤ちゃんだった時の事結構覚えているの」
そんな話、聞いた事無かった。娘は、今まで私達に知られないように、わざとその話をしなかったのだろうか。
「例えば、私が生まれたすぐ後に、お父さんとお母さんが一緒に紙を書いて、幸せそうにしてた事とか、私達に縁もゆかりもない様な苗字のお墓参りにいったりとか」
前の話は、娘が生まれて、少し後に書いた出生届と婚姻届の時だ。後の話は、娘の実のお父さんの墓参り。
たしかに、その二つは実際に娘を連れて私達がやった事だった。私と、お父さんは、二人で顔を見合わせて驚きを隠せなかった。
「いつからの記憶があるんだ?」
「んー、なんとなくな記憶しかないから、曖昧だけど、多分産声をあげて少し経った頃にはもう、周りの音とかの記憶はあるね」
「じゃあ、全部知っていたのか……?」
「まぁ、さっきも言ったけど、写真的な場面を切り取った様な記憶しか無いから、後から知識を得て、あの時はそうだったのかって理解していく感じだけどね、一応」
その時、私は体から熱が一気に引いていく様な感覚に襲われた。
もし、娘が言う通り、小さな頃の記憶を持っているのだとしたら、私はこの子を中絶してしまおうか悩んでいた事もこの子に知られているかもしれない。
手が震える。この子の顔をまともに見る事が出来ない。
「私、少しお手洗いに行ってくるわね」
娘の顔を見ずに、私はそそくさとリビングを後にしようとしたその時だった。
「お母さん」
体がびくりと反応する。
「……何?」
「私が生まれてきた時にお母さんがくれた言葉、覚えてる? これはね、私の記憶上、生まれてから一番最初にかけてもらった言葉なんだよね」
娘の笑い声が聞こえてくる。どこか引きつった様な笑い声だった。私は頭が回らず、何を言ったか咄嗟に思い出せなかった。
「ごめんなさい、すぐにはちょっと思い出せないわ。すぐ戻るから」
なんとか今はあの子から離れたい。自分を殺そうか迷っていた母親だったなんて、それを知りながら生きてきたなんて、そんなのあまりにも不憫すぎる。
ごめんね、こんな母親で。
私は、気が付けば涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
「お母さん!」
娘が私の腕を掴んで無理矢理引き寄せた。
娘の顔が私の視界にアップで映り込む。
その目の奥は星の様にキラキラと光り輝いていた。
「お母さん! 色々、大変だったよね。沢山の葛藤があった事、全部は分からないけど……それでも、相当辛かったんだなって分かるよ! だからね……」
娘は私を強く抱きしめた。
その温もりは、小さく震えていた。
「私を産んでくれて……ありがとう……お父さん……血が繋がってないのに、沢山の愛をくれてありがとう」
「血の繋がりなんて関係ないさ。優子は俺の大切な娘だ」
気が付けば、私は声を上げて泣いていた。
「お誕生日おめでとう……優子……生まれてきてくれて……本当にありがとう……」
「あはは! お母さん、ちゃんと覚えてるじゃん!」
鈴のように可愛い声で泣きながら笑顔を振りまく娘を、私とお父さんは強く強く抱きしめた。
そうだった。私は、この子を初めて抱きしめた時、何があってもこの子を幸せにしようと誓ったんだった。
こんな母親でごめんね。心の中でそう思っていたけど、この子の顔を見た瞬間全てが吹き飛んで、その言葉がこぼれ落ちた。
強く抱いたその温もりは、世界一の幸せ者だと心の底から思わせてくれる優しい温かさだった。
もう一度、いや、何度でも言おう。
生まれてきてくれてありがとう。