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アシャがサマルカンドの羽音に気付いたのは、ユーノが寝入ってしばらくしてからだった。
「どこ行くんだ?」
「ちょっと、な」
「ああ」
火の番のイルファが男同士で何を恥ずかしがるんだ、と不穏な台詞を呟くのに苦笑して背中を向け、草波の中に入り込んでいく。
ユーノの守護として付けたサマルカンドだが、元々の仕事の時はそちらを優先させている。
(それに今は俺が居る)
アシャがユーノの側に居る限り、二度とゼランに傷つけられたような酷い目に合わせるつもりはない。強行されるなら、封じている力を使ってでも敵を仕留める腹を決めている。
(そうすれば、いつかは)
アシャに心を許してくれるだろうか。今夜みたいにはっきりわかる距離を取らずに、体の側に剣を置かずに、アシャの腕の中で眠ってくれるだろうか。
(ユーノ)
眠りに落ちたユーノの唇が微かに開くのを見ていると気持ちが揺れる。吐息を耳元で聞きたいと苛立ちが募る。
(どうなってるんだ、ほんとうに)
これほど身動きできないほど1人に執着したのは覚えている限り初めて、しかもそれを正面切って認めてしまったら楽になれるかと思っていたのに、焦りは日毎夜毎に募るばかりで。
(これが恋、なのか)
体を交わらせることもなく、触れ合うことすらなく、甘い睦言を囁くわけでもなく、ただ日々を一緒に過ごすだけなのに、その光景からユーノが失われるかもしれない『明日』を思うと、凍るような冷やかな怒りが腹の底にしこり出す。
失うぐらいなら、今すぐに。
「……」
歩きながらぐしゃぐしゃと頭を片手で掻きむしった。危うい光を宿しただろう目を閉じて歯を固く食いしばる。叫んでしまいそうになる、お前を俺に寄越せ、と。
「…ちっ…」
溜め息をついて、握りしめた髪の毛をそっと離し俯いた。しばらくしてから、のろのろと掻きあげ整える。
情けない。アシャともあろうものが。
「クゥ」
高空で微かな声が響いて顔を上げた。
ほぼ真上にサマルカンドの白い姿が浮かんでいる。クフィラは夜でも視力を失わない。それゆえこうして伝令に使われたこともあるのだ、昔は。
「サマル」
左腕を差し伸べる。巻いた革の籠手の上へ、白いクフィラは体重を消して舞い降りてくる。
「クゥア…」
長い旅を終えた褒美と、甘えるように嘴をアシャの髪に掠らせる。
「よしよし、ごくろうだった」
背中を軽く撫で、アシャはクフィラの足に巻いた通信筒に触れた。白くて光沢のある、指一関節ほどの長さの筒を抜き取り、懐から出したもっと細い黒い棒を差し込んでから先端をこめかみに当てる。ラズーンへ問い合わせた危険地域の最新リストだ。
ユーノ1人ならまだしも、今はイルファ、レスファートという手のかかる2人を連れている。『運命』側の標的になるのもそう遠くないだろう。しかもユーノの性分では、この先どんな厄介事に飛び込むと言い出すか知れたものではない。
それまでに少しでも距離を稼いでおきたかった。
目を閉じて流れ込む情報に集中していたアシャは突然かっと目を見開いた。
「しまった!」
苛つきながら残りを聞き終え、サマルカンドの通信筒に戻し、一声叫んでクフィラを放つ。
「ラズーンへ戻れ!」
「クェアッ!!」
主のただならぬ緊張を感じ取ったのだろう、クフィラは猛々しい叫びを上げて、投擲された石のように一筋に、風を掴んで夜空に高く舞い上がっていく。
「ちぃっ」
(ネークも入っていたのか)
身を翻したアシャは舌打ちして走り出した。
危険地域とはラズーンの支配下を離れコントロールがきかなくなった地域を示す。すなわち、既に破壊と戦乱が覆い始めている場所だ。前回よりも遥かに増え、予想を遥かに越えた『運命』侵攻速度は、やはり今回の200年祭が常のものではないと教えてくる。
(間に合うか?)
ユーノの所へ戻ることもそうだが、ラズーンへ辿り着いた時、そこにユーノを受け取る設備は残されているのだろうか。破壊されてしまっていたら、セレドに戻ることすら難しくなる。
とにかく今はできる限りの警戒をしつつ、急ぎここから離れるしかない。
頭の中に様々な行程が一気に広がり、それぞれの利点欠点が計算され始める。
ネークの草原は広い。どこをどう抜けるにしても、『運命』に遭遇すればラズーンへの旅程が遅れてしまう。
燃え上がる炎を目標に戻ると、その側で人影が慌ただしく動くのが見えた。剣を掴んだ小柄な姿がひらりと馬に跨がる。荒々しい嘶きはヒストのもの、気付いて思わず叫ぶ。
「ユーノ!」
また1人でどこかへ行こうと言うのか。
「アシャ!」
今しも走り出そうとしていたヒストが手綱を絞られて猛ったが、ユーノはしっかり御したままアシャを待った。
「どうした」
「レスがおかしい」
ユーノの顔色は青い。
「息をしないし、目も覚まさない。けど、体は温かいし、うまく言えないけど、死んでない」
普通ならたじろいで口ごもるところを、ユーノはあっさり言い放った。焚き火の炎に照らされて、きらきらと黒い瞳が燃え上がっている。
「ボクとレスが繋がっているせいかもしれないけど、レスが草猫達に攫われる夢を見た」
一瞬唇を噛んだ表情が幼かった。すぐに切り替えて尋ねてくる。
「アシャ、草猫達の巣はどこだ?」
「草原の端に」
アシャは自分もすぐに馬を引き出した。ユーノが拒む間を与えずに、さっさと跨がって振り返る。
(置いていかれるのはごめんだ)
アシャのまずい部分を目覚めさせてしまう、ユーノを失う不安と恐怖で。
「草猫達の住処だという古い砦の跡がある。そこかもしれない」
「そこに決まってる」
ユーノは決めつけてイルファを振り向いた。
「レスの体を頼む」
「え、あ」
「そこへ行こう、アシャ!」
「おう!」
呼ばれて胸が躍る自分をくすぐったく感じたが、事態は笑っていられるものではない。
「お、おい!」
イルファがうろたえた声を上げてきょろきょろとレスとアシャを見比べるが、ユーノはもう馬を駆り立て走り出し始めている。
「ったく、逡巡ぐらいしてくれ」
知らない土地なんだぞ。
舌打ちしながら後を追って馬を煽ったアシャの背中から、
「俺は子守りかよ!」
イルファの情けない声が追ってきた。
「アシャの方が適任だろうが!!」
「お前は場所を知らないだろうが!」
「う、……く、そーっっ!!!」
俺だってなあ、出るとこへ出ればちゃんとした剣士なんだぞ、わかってんのか、お前らーーーっっ!
イルファの絶叫は虚しく草原に響いて消えた。




