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「ふ、ぅ」
涼やかな外気にあたり、汗に濡れた髪をかきあげてアシャは溜め息をついた。
熱っぽく絡みつく女達の視線には慣れてはいるが、久々にずっと浴びていると気疲れする。見かけに不似合いな野放図さもある身としては、自由気侭に旅を謳歌する方が性に合う。
しかし。
「いつ抜け出した…?」
首を捻った。紹介された時は居たはずだ。視線を移していくと眩そうな目をしてこちらを見、一瞬怯んだ顔になったがすぐに不敵に笑い返してきた。
今ならあの笑みの理由がわかる。万が一にもアシャが家族に危害を加えるようなら、容赦なく切り捨てるという宣戦布告のようなものだろう。
それから談話が始まって、その時もまだ確かにユーノは居た。気配を消して身を引いたのはわかるが、その動きで場の空気を乱さなかった制御力に舌を巻く。
他の人間ならまだしも。
(俺を相手に)
このアシャを。
(シートスあたりが聞いたら何と言うやら)
『名だたるアシャも随分温くなったものだ、放浪で人恋しさに溺れておられたのか』
豪胆に笑う声が聞こえそうだ。
月光が影を落とす靄がかかった夜の庭園、静まり返った木々は立ち尽している。意識を澄ませ、人の気配を探りながら進んでいくが、どこにも何も感じ取れない。一旦立ち止まって気を沈めたとたん、微かに馬の蹄の音がした。
「こっちか」
華やかな皇宮内と対照的に木立の影に一頭の馬の姿があった。側に誰もいない。
(こんな状態で馬を放置するとは)
盗人の存在どころか悪用されることさえ考えないのか。
吐息まじりに近づいて、夜に溶けるような馬の背に小さな人影が乗っているのに気付いた。
「……ユーノ?」
呆気に取られた。
さっきのドレス姿で馬に跨がったまま、ユーノは俯せて馬の背中にしがみついている。もっと近づいて、相手が気持ち良さそうに寝息を立てているのに気づいてなお呆れる。
「……おいおい」
よくもそんな姿勢で、それもなぜこんな夜露に濡れる場所で。しかも妙にほっとした顔で眠っていないか。
思った瞬間に気がついた。
「……警護、しているのか」
思わず皇宮内を振り返った。
広間からは温かな明りが零れ、人々は笑いさざめき踊っている。窓から見える場所を今通り過ぎたのは、親衛隊の長、それこそゼランではなかったか。
皇を守り、皇宮を警備するはずの兵が職務を離れ、守られているはずの皇女が夜闇に潜んで敵を警戒している。
こんな暗い庭の片隅に、闇に沈んでたった1人で。
「どうして……こいつだけ……」
なぜ守られていない、他の皇族のように。何か特別な理由でもあるのか。単に男勝りというだけではあるまい。
考えながら、アシャは振り返って馬に近寄った。主の睡眠を守る役目を負った馬が瞳を凝らせて顔を上げるのに笑みかける。
忠実な馬だ。主を大事に思っている。それは、ユーノがこの馬と丁寧に関係を結んできたことを示している。
気配を殺してアシャはユーノに両手を差し伸べた。やはりどうしても苦しそうな体勢に見える。抱え降ろして、草の上にでも、できれば軒の下にでも寝かせてやりたい。
その間の護りは自分がすればいいなどと似合わないことを思いついてしまったのは、夜闇に休める場所さえなく1人居るユーノに、遠い日の自分を重ねてしまったからだろうか。
だが、近づくアシャの手に馬は警戒を緩めなかった。首を振り、蹄の音を立てて身構える。同時に押し殺した叫びが響いて、闇に光が閃いた。
「何者っ!」「っっ!」
ガシャッ、と激しい音が鳴って、アシャの目の前で剣が噛み合った。一方は馬上から振り降ろされた細身の剣、もう一方はアシャが抜き放った黄金の剣。
「……な、んだ……あなたか」
苦笑したユーノがそれでも剣から力を抜かず、じろりとアシャの剣を見て眉を寄せる。
「……どこが、武器は所有していない、だ」
「……そうすぐには見つかるような扱いをしていない、許してやれ」
親衛隊の愚を責める声にアシャも苦笑しながらユーノを見返した。黒い瞳が瞬きもせず、厳しい顔でこちらを見据える。街中で見たものとも皇宮で見たものとも違う、冷酷で鋭い目、見下ろされているからだけではないだろう、一瞬『泉の狩人』(オーミノ)の姿を思い起こした。
「暗殺者か………カザドがお前を雇ったのか」
「カザド?」
冷ややかな問いかけにアシャは眉を上げた。
確かカザド、というのはセレドより北西にある国の名だ。主はカザディノ、権力志向の脂ぎった中年男だなと思い出し、なるほどユーノが警戒しているのは隣国の王なのか、と気づく。
「……違うのか」
アシャの沈黙をユーノは的確に読み取った。訝しそうに首を傾げ、そうするとようやく年相応に見える顔に戻る。乱れた髪を頬から拳で払い、
「何の用?」
すぐに剣を引いて鞘におさめた。
その思いきりの良さにまた呆れる。
「自分から剣をおさめていいのか」
「あなたには殺気がない。それに、私を殺るつもりならとっくに殺ってる」
「君が今手控えたように?」
「………用件は何?」
ユーノは静かに視線を逸らせた。