12
「……」
沈黙はおそらく意味がない。
「ずっと若い頃、『ラズーン』から流れてきた老人の世話をしたことがあるのですよ」
「……なるほど」
アシャはゆっくりと息を吐く。だが、手は懐に短剣を握りしめ、体から緊張は解かない。
「『ラズーン』のアシャ、ですか」
「……いかにも」
「私の知識が確かならば」
導師は笑みを消す。
「こんな辺境におられるべき方ではないはずだが」
「……私は」
ことばを一応改めた。
「果たすべき勤めを放棄し、なぜこんなところにおられる」
「……200年祭のために『銀の王族』を守護して『ラズーン』へ戻る途中だ」
馬鹿な言い訳だと思った。一度離れた故郷におめおめ戻る理由を200年祭と言い逃れる、その実、その200年祭に繋がる役割から逃げ出したのに。
「『銀の王族』?」
導師の顔が暗く澱んだ。
「この子が『銀の王族』ならば、『ラズーン』支配も堕ちたものだ」
『銀の王族』ならば、背負う運命に報いるために世の幸福を約束されているのではないのか。支える重荷に償いとして喜びを満たされているはずではないのか。
導師が穏やかながら、それでもはっきり罵倒してきておや、と思った。
「あなたはこの子の心を知らないのか」
痛み、傷つき、必死に生き延びてきたのに、そのどれ1つも報いられず。
「今もなお……っ」
ふいに何かを気付いたように、はっとした顔で導師が口を噤む。
「………あなたは、何も、知らないのか」
「…?」
訝しく見返すと、相手は険しく眉を寄せ、唸るように繰り返した。
「何も、聞いていないのか」
「何をだ」
「………それほど、深く」
隠し通してきたのか。
「隠し通してきた?」
「……あれほど、何度も呼んだのに……」
「呼んだ……?」
誰を、そう思った瞬間に閃いたのは、ユーノが望んでいる相手が居るのだろうという想像。
同時にさきほどからの、導師らしくない波立った応対に不愉快なものが競り上がる。
導師が『銀の王族』に同行している視察官を責めずにはいられないほど、ユーノの中に傷みを読み取ったのか。
それほど深くユーノの内側に入ったのか。
「……ならば、なおのこと」
導師はふいに向きを変えた。アシャが止める間もなく、まるで見えているかのような確かな足取りでユーノを運び、川へと投げ落とす。
「何を!」
ぞっとしてアシャは放り出されたユーノの側に駆け寄った。
「ついこの間まで大怪我をして起きられないほどだったんだぞ!」
何が導師だ、お前はおかしな趣味を持ってるんじゃないか。怒鳴りつけそうになった矢先、うろたえたユーノが体を起こすのにぎくりとする。
目が覚めていたのか?
いつから?
どこまで聞いた?
まさかアシャの素性を察したりしたのではないか。怯んだアシャに背中を向けて導師が声を響かせる。
「怯むぐらいなら、手を出さぬことだ」
「っ」
「それほど我が身が大切ならば、大人しくこの娘を別の者に委ねなさい、視察官殿」
「……」
「それが嫌なら」
肩越しに閉じた目蓋を貫くように睨まれた気がした。
「守り切り、支え切るがいい、アシャ、の名前にかけて」
それが、できる、ぐらいなら。
歯を食いしばったアシャの目の前で、導師が呆然としているユーノに呼び掛ける。
「幼き剣士よ………あなたの迷いは生きるのに必要な迷い。それを取り去れとは、死を願うことです」
アシャは息を呑んだ。
死を望んだ、のか?
あのユーノが、迷いを取り去るために、死ぬことを選んだというのか?
それほど大事な気持ちだったのか?
それほど……大事な相手……なのか……?
「それでもなお迷いを取りたいのですか。そこで頭を冷やして考えなさい」
導師は言い捨てるとくるりと向きを変えた。立ち竦むアシャの前を通り過ぎながら、
「後はあなたに任せよう」
心なしか怒りを押し殺したような声で、
「あなたが少しでも『ラズーン』に対して責任があると考えるなら」
勤めを思い出されるがいい。
言い放たれて凍りつく。
責任はある、言い逃れられない、導師が想像もできない矛盾した理によって課せられた軛。
だがしかし。
アシャは顔を歪める。
「俺、は」
理を否定してしまえば、世界もまた意味がなくなるのだ。
「だって……」
掠れた声が響いて振り返る。
「だって……どうしようも…ないじゃないか…」
まるでユーノが自分の内側の声を代弁しているかのように聞こえて、思わず川に入る。
「他に、どうにも、できないじゃないか」
俯いて声を殺してユーノが泣く。
「どうにも……ならない…のに」
冷えて凍りつくような水の中で膝を抱えて、震えながら呻くように泣きじゃくる。
「どうしろって…言うんだよ…っ」
「ユーノ…っ」
ふいに初めて、すぐ間近に、ひどく近くに、人の存在を、ユーノの熱を感じた。
その熱が欲しいと、激しく思った。
「あ、あした…っから……ど……して………どんな……顔して……どんな…気持ちで…っ」
呻くように訴えるように体を竦ませて泣くユーノ。
その姿は幼い日、あの闇の草原に居たアシャそのもので。
今でも覚えている、生まれた瞬間に全てが終わっていたのだと理解した瞬間の衝撃。
『太皇』がいなければこの命もなかっただろうが、生き延びても穏やかな幸福が待つわけではないと思い知らされた日。
その自分より遥かに細い体を震わせて泣く娘の体温が、この水に奪われ続けている。
凍りつきそうな足をふらりと踏み出した。
それは、俺のものだ。
その熱を、俺によこせ。
胸の中の呟きは、闇の気配を澱ませている。
近付いたアシャの気配に気付いたのだろう、ユーノがのろのろと顔を上げる。目元も頬も鼻の頭も、寒さと涙で真っ赤になって、唇だけが白く色を失っている。
「だ…れ?」
わからないのか。
失望と自嘲に苦く笑いながらそっと手を出すと、夢うつつのような顔で両手を伸ばしてくるからたまらなくなった。
「ユーノ…っ」
呼び掛けて両手を掴み、そのまま身を屈めて首へ導き、体を抱き寄せる。戸惑って力をいれかねているのがじれったくて、掴まれ、そう囁きながら強くしっかり胸に引き寄せた。




