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「? どこへ行くんだ?」
宿の戸口を出ようとしたアシャはイルファに呼び止められて舌打ちした。
「ちょっと…見てくる」
「ユーノか?」
「夜も更けてきたのに、まだ戻らない」
「ああ」
イルファが頷く。
「いい男らしいな」
「どういう意味だ」
じろりと相手を見遣ってアシャは唸る。
「いや別に。お前とは違う意味のいい男らしいと聞いたぞ。訪ねてくる者がすぐに安心して心を開くらしい」
「…導師なら当然だろう」
「ああ、ユーノもすぐに何でも話すんじゃないか」
「……」
「俺達に話しにくいことも、あ、そうだ」
好きな女の名前とか。
イルファが楽しそうに笑った。
「案外、あいつの悩みは故郷に置いて来た可愛い女のことだったりな」
「出てくる」
レスを頼むな、と身を翻して外の馬に素早く跨がりながら、アシャはここに着くまでにさんざん思ったことをまた思う。
故郷に置いて来た可愛い女。
女ではないにしても、好きだった人間が居たんじゃないのか。
確かにアシャは付き人だったが、ユーノの動きを完全に把握はできなかったし、あれだけの傷があるのを隠し通されていたのだから、ユーノの本当の気持ちなどわかっていなかっただろう。
アシャの知らない大事な相手が居て、あの傷もあの境遇も、その男への気持ちを頼りにしのいでいたんじゃないのか。
ちっ、と思わず舌打ちをして我に返った。
「落ち着け」
ユーノは愛しいと思う。今まで会ったこともない人間、強くてしなやかで、なのにふとした拍子に脆い部分を見せられると、その弱味を晒すのは自分だけなのかもしれないと気分が高揚する。
けれど。
暗い夜道を進みながらアシャは目を伏せる。
ユーノの全身の傷はそんな自惚れを砕いてしまった。
アシャの知らないところでユーノはあれほど傷を負い、アシャに知らせることなくユーノは日々を笑って過ごしていた。この手に掴んでいたはずのユーノの姿は、他の人間に見せられていたと同じような偽りに過ぎず、他の人間より深く知っていると思っていた部分もユーノが多少譲ったに過ぎない。アシャが踏み込み、獲得したものではない。
ユーノの中にはまだアシャのたどり着けないものが秘められている。なのにそれを既に手にしている男がどこかに居るも知れない。
想像がどんどん不穏な方向に進んでいく。
それは、ユーノが、その男の侵入を許した、そういうことじゃないのか。
「……」
一瞬、視界がゆらりと歪んだ気がした。
脳裏に過った想像は、ユーノの細い身体を抱きすくめている影の背中。すがりつくようなユーノの手に、拒んでいないと思い知らされた気がして、そんなことがあるわけがない、あれはまだ男を知らない身体のはず、そう必死に思い込もうとする自分に気付き、思わず固まってしまう。
「まずいな」
額に滲みかけた冷や汗にうんざりしながら拭ってぼやく。
一時の戯れ言ならまだしも、特定の女性などつくれるはずもない。相手に滅亡を背負わせてしまう。そんな重圧に耐えられる娘などいない。
でも、ユーノなら。
また閃いた思考にアシャは暗闇を睨みつける。
あの強靱でしなやかな精神なら。数々の危険をくぐり抜けてきた体なら。それでもレスファートに見せるような優しさを失わない心なら。運命を受け入れることを選び取る、あの豊かな魂なら。
ごく、と喉が鳴ったのが、浅ましい欲望からだとわかっている。
ユーノなら。
ユーノならアシャが望んでもいいのではないか。
確かに今は付き人以上になれそうもないが、そこは経験というものもあることだし、何より『実戦』に関してはアシャの方がずっと上のはず。姑息な手には違いない、違いないが、快感を教えて引き入れるという手段もあるはずだ。
「お、い」
何を、考えて、いる。
そんなことをしたら、どれほどユーノを傷つけることか。
ましてや、故郷に好きな男がいるとしたら、それこそ取り返しのつかないことになる。
「よせ」
体の中に広がる衝動を、目を閉じて凍りつくような思いで封じ込めていく。
何のために『ラズーン』を出たんだ、俺は。
「く…そ」
やっぱり導師が要るのはアシャの方かも知れない。
重く深い溜め息をついて顔を上げたとき、導師の家の裏扉が開いたのが見えた。
「?」
灯が漏れ、誰かを抱えた導師が外に出てくる、そこまで見てとったとたん、馬に一鞭あてて速度を上げる。
(ユーノ?)
なぜあいつの腕に易々と抱かれたままで?
あれほどの怪我をしても、意識が戻ればアシャにはすがらなかったのに。
押さえ込むのに成功したはずの揺れがあっさりアシャを突き動かした。
「もう、やめなさい!」
突然、導師が口にするには熱のこもった声が響いて、立ち止まった導師が愛おしそうにユーノを抱き締めるのが見えた。
「!」
かろうじて懐の短剣を抜き放たなかったのは奇跡、全身の血が一気に奪われた気がして視界が眩む。
「何をしてるっ、貴様っっ!」
叫んだ声に応じると思っていたユーノが、依然くたりと導師の胸におさまっているのに背筋を寒気が這い上がった。
薬を、盛られているのか。
「く、そっ」
まさかこいつまで『運命』に抱き込まれているのか。
一瞬にして冴え渡った感覚をぎちぎちに張って、臨戦体勢で駆け寄っていくアシャ、だが導師は動じた様子もなく、ユーノを抱えたまま凛とした声で言い放った。
「視察官殿!」
「っ」
攻撃をしかける寸前、広げていた殺意をおさめるアシャに導師が静かに微笑む。
「やはり、そうでしたか、アシャ殿」




