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「この森を抜けるとネークに入るぞ」
「ふぅん……っつ」
アシャの声に手綱を引いたユーノが微かに眉をしかめる。
「痛むのか?」
「たいしたことないよ、あれだけ斬られたわりにはずいぶんまし」
笑い返したユーノが、それでも背中をなるべく捻らないようにしているのに、アシャは無理するな、と言いかけてことばを呑む。
「今日中に入れるかな」
「ああ、大丈夫だろう」
「そう」
ほっとした顔でユーノは馬を進める。
(無理をさせているのは俺だ)
アシャの胸中は苦い。
イルファに女ではないかと疑われてから、ユーノはことさら元気に振る舞おうとしている。よく笑い、よく食べ、夜も早々に眠りにつく。
確かにひたすら傷を回復させようとしていると見えるが、時々追い詰められたような顔をして背中を向けるときがあって、その姿は誰も助けてはくれないのだ、と呟いているようにも見える。
(無理もない)
アシャは溜め息をついた。
(あんなことをするような付き人など、安心できやしない)
いくらユーノが女だと思われると、この先ややこしいことになるとはいえ、他にいくらでも方法があったはずだ、と冷静な今はそう思う。
けれどあの時、レガの襲撃に遭い、しかもユーノが怪我を押して戦おうとして気を失ったと聞いたとたん、頭の中心が真っ白になって自分が自分でなくなるような衝撃を覚えた。
話し続けるイルファを押し退けて、今はもう目が覚めている、大丈夫そうだと聞いても、この目で確かめるまでは信じられなかった。あげくに、人事不省のユーノをイルファが抱き上げ世話をしたなどと聞かされて、いくらでもごまかせるはずのラズーンの内情まで打ち明けてしまったのは明らかにアシャの失態、それもこれもユーノが事情を知って大人しくしてくれるならと思ったのだが、逆に煽ってしまった感じもしてなおさら焦った。長年の友、サマル
カンドをつけて、これで一安心、そう思った矢先のイルファのことば。
『そいつは、女だ』
まだ白っぽく穴が空いたような感覚の頭に、音をたてて紅蓮の炎が燃え広がるのを感じた。
なぜ断言できる?
断言できるほど、ユーノに長く触れていたのか?
断言するほど、ユーノが何か話したのか?
俺がいない間に、イルファだけに?
まさか。
俺よりイルファを信じると?
俺よりイルファを頼りにしたと?
まさか、イルファに自ら望んで身を委ねた、とか?
イルファと言い合っているユーノを引き寄せて、そのまま目の前で唇を奪ってしまおう、俺のものだから触るな、そう言いかけた自分に気付いたときにはユーノの肩を掴んでいて。
離せ。
そう心は命じたのに。
タシカメロ。
そう荒々しい叫びが響いて。
徴を目にしてしまったら俺はどうするつもりだろう。どこか遠くで思いつつ、素早く巡らせた機転がどれほどユーノを傷つけるのか、あの一瞬思い及ばなかった。
ずらした衣服の下の肌は出て行く前と同様、傷を刻まれてはいたが、どこにも愛撫の跡はなかった。
けれど、ユーノを女性と認識したならこの先はわからない。思った瞬間に、イルファがユーノにどんな興味も持たないようにしておかなくては、と強く思った。
掌におさまる細い肩を、指の下に触れる柔らかでしなやかな弾力を、そこに巻かれた包帯への怒りに握りしめたくなる、密やかな膨らみを、触れながら考えていた、凍るような怒りで、他の誰にも、二度と再びユーノに触れることなど許さない、と。
なぜならユーノは。
「……っ」
口を押さえてアシャは瞬きする。
呟きそうになった一言をかろうじて噛み殺し、そんな自分に戸惑った。
胸の中に広がる焦燥、すぐ側に居るのに手に入れられない歯がゆさ、熱くて冷たいこの感情、これが単なる恋などではないことをアシャは気付いている。
ただユーナ・セレディスという少女を愛しいと思うだけではなく、アシャはたぶん『銀の王族』としてのユーノをも強く欲している。
なぜならアシャは、他ならぬ『ラズーン』の。
「…」
きつく奥歯を噛む。
『銀の王族』としてのユーノを欲する力は、ユーノを愛しいなどと思ってはいない。ただユーノの身体にある命の種を望んでいるだけだ。その衝動を満たすことの恐怖から逃れて、アシャはわざわざ辺境へと身を隠しているのに。
「導師、か」
ちらりと隣に轡を並べるユーノを見遣った。
明るい光に透け、風に乱れる焦茶色の髪は、見えているよりずっとしっとりと指先に快いと知っている。滑らかな頬は掌に吸い付くようだし、意固地そうに尖らせた唇の内側を思うさま蹂躙することを考えると胸が甘くなる。華奢な身体は腕に抱き込み所余さずいとしめるだろうし、張り詰めて強い声音が、その瞬間にどんなふうに崩れるのかと考えるなら、誰でも誘われるはずだ。
日増しにユーノに魅かれていく自分が居る。これまでの相手とは比べものにならない強さ激しさで、ユーノの全てを我がものにしたいと苛立つのを感じている。
(俺の方が導師が要るんじゃないか)
ネークの導師は人の心に深く通じ、近隣諸国からも悩みを相談するために訪れると言う。
噂に高い導師に会いたいというのは、ユーノもまた何かおさめきれないものがあるのだろうか。
(それとも、誰を、か)
誰か恋しい相手が居て、その気持ちを抱えたまま旅に出て、けれど命の瀬戸際になって相手への想いを押さえ切れなくなり、導師に会いたがっているのではないか。
考えた瞬間にじりっ、と腹の底が苦く熱くなって、眉を寄せた。
(嫉妬、か)
今は付き人としての信頼も失った状態なんだぞ、と舌打ちする。
(嫌われているかもしれないのに)
思っただけで焦燥が広がって、我ながら馬鹿馬鹿しくなった。
(それしか考えられない餓鬼だ)
女を貪る時期は過ぎたはずじゃなかったのか、と言い聞かせながら溜め息をついた。
(ミネルバに嗤われるはずだな)
『氷のアシャ』がどうしたのだ。袖にしてきた諸妃諸候が嘆こうぞ。
陰鬱な嘲笑が耳の底で響き渡る。
「う…わぁ…」
ふいにレスファートが嬉しそうな声を上げて我に返った。
いつの間にか森が途切れていた。
日射しが周囲に溢れ返っているのに、イルファの前でへたっていたレスファートも気力を取り戻したようだ。
「すご…い」
側でユーノも目を見張って、前方に広がった光景に見愡れている。
ユーノ達が立ち止まっている場所を小高い丘として緩やかな斜面が続いていた。少し先には煌めく流れが横切っている。川では子ども達がはしゃいで跳ね回り、弾かれた水滴が光を撥ねて一層まばゆい。近くには緑豊かな畑が広がり、男女がゆったりと見回りつつ作業している。幾つかの丘陵の間に家屋が点在し、煙と食べ物の匂いが漂っている。ぼちぼち昼餉なのだろう。
遠くへ目をやれば、広々とした草原が村はずれから続き、風に波打ちながら地平となる寸前、青みを帯びた山々がその頂上をわずかに見せている。
穏やかで伸びやかで、どこまでも明るい村の風景だ。




