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数日後、セレドの国境を走り込んでいく1頭の馬があった。
乗っているのは目立たぬ服装を裏切る金褐色の髪を輝かせたアシャ、紫の瞳を苛立ちに煌めかせ、街路を一筋に中央区へ突っ切っていく。驚きの目を見張る周囲に目もくれず、まっすぐに皇宮へと向かう。
「アシャ?!」
「どうなさったんですか!」
入口で馬から飛び下り、口々に問う親衛隊に軽く会釈しただけで、アシャはずかずかと皇宮の奥へ踏み入った。顔見知りというだけで、息を荒げて明らかに不審な様子の自分を引き止めもしない守り、その緩みに今さらながらに不愉快な波が胸に動いたのは、緩みの全てを1人で背負っていた娘のことで。
今遠くに、イルファに任せるしかなかった、床に伏している愛しい娘のことで。
側を離れたくなどなかった。
どうしても、と言うから。
自分の家族を守れと主に命じられたから。
この不快さを叩きつける相手はもちろん決まっている。
「ゼランっ!」
「…アシャ?」
めったに響かせない大声にテラスに居たらしい人影が柔らかく問いながら広間に入ってくる。
「あなたですか?」
「……レアナ様」
染み一つない白いドレスの裳裾をたおやかに引き寄せながら近付いてくる姿に、アシャは少し落ち着いた。
よかった、とにかくレアナは無事だ。
ほ、と小さく息を吐いたアシャの様子にレアナは不安そうに赤茶色の瞳を瞬かせた。
「どうしてここに? ユーノは一緒ではないのですか?」
「はい、レアナ様」
ふわりと挙げられた手に軽く頭を下げて礼をとる。
「セアラ様、皇や皇妃様はどちらに」
「ああ」
レアナは微笑む。
「このところよく晴れ作物の実りも豊か、みなも喜んでいると上納がありました。それを祝い、昨日は宴が開かれて、遅くまでそれぞれに楽しんでいましたから、まだお部屋で休まれておいでです」
「そう、ですか」
じりっと胸を焦がしたのは、やはり旅の空の下で粗末なベッドに傷だらけの体を横たえていたユーノのことだ。
皇も皇妃もユーノがどれほど危険な旅に出たか知らないはずもないのに、やはりここでは同じように宴が開かれ、賑やかな談笑とダンス、溢れるような料理と酒、きらびやかな宝石や色鮮やかな服装をまとって、ユーノの家族は平穏を楽しんでいる。
胸が苦しくなる。
あなた方のその幸福は一体誰によって満たされているのか。
そうレアナに詰め寄り詰りたい。
だがしかし、その思いは諸刃の剣となってアシャの口を封じる。
目の前の優しげで柔らかな気配の女性を悲しませることを、きっと誰も望まない。世界の恐怖を知らないがゆえの美しさだとはいえ、その姿は人の心を慰める。
それに、アシャもまた。
ユーノのように傷ついている『銀の王族』がいるかもしれないと考えもしないで、いや、その可能性を考えたのに責務の重さに怯んで、結果自らを放逐し、ふらふらと諸国を流れていた。
その甘さがユーノを追い詰めたのだとも言える。
ならば背負うのか。背負いきれるのか、この世界を。
いや。
「何があったのですか?」
レアナに見上げられて、首を振る。
きっとアシャにレアナを責める資格などないのだ。
「ゼランはどこに居ますか?」
「ゼラン?」
ゼランなら夕べも一緒に。
レアナは少し首を傾げた。
「ああ、そうですわ、さっき庭を横切って……急いでいたのでしょう、呼び掛けても応えなかったのですが」
「どちらへ行きました?」
嫌な予感にアシャは身を翻す。慌てたようにレアナが呼び掛けてくる。
「何ごとですの」
「どちらに?」
「あ、たぶん、お父さまのお部屋かと」
夕べも宴の途中で何か話し掛けていましたし。
「皇の」
ち、と思わず舌打ちしてしまった。
「アシャ?」
「皇妃やセアラ様とご一緒に。私が呼ぶまでいらっしゃらないように」
「…わかりました」
緊迫したアシャの声にレアナが立ち止まる。振り捨てるように足を速めて廊下を抜け、奥まった皇の居室に向かう。相変わらず無防備に、見張り1人も立てていない皇の部屋の前、断ることば一つかけずに室内に滑り込もうとするゼランを見つけた。
「待て!」
「っ」
振り返ったゼランが訝しげな顔を見せる。だが、近付くアシャの形相に察するものがあったのだろう、顔を歪めると、懐に抱えていた手を引き抜きながら一気に部屋に飛び込もうとする。
はっとしてアシャは声を張り上げた。
「セレディス4世!!」
いきなりの叫びに部屋の中で物音が響く。それを力になおも声を放つ。
「曲者が狙っております!」
「ちいっ!」
ゼランが素早く身を翻す。廊下を駆け抜け、テラスを飛び越え、庭から奥へ、おそらくは厩舎の馬を引き出して逃げ去ろうとしたのだろうが、アシャの動きのほうが早かった。立ち塞がるアシャに、かつて見ないほど醜悪な表情でゼランが立ち竦み、口を開く。
「そこをどけ」
剣を抜き放ってきしるように唸った。
「大怪我をするぞ、若造が」
「……生憎」
アシャはゆっくり両手を降ろして向き直る。
「主の命は家族を守れ、なのだ。ここでお前を逃がすわけにはいかんだろう」
自分の顔が相手に負けず劣らず、殺意を満たして引きつれるのを感じた。
「随分なことも、してくれたじゃないか」
「……やはり、生きていたのか」
「ぬけぬけと」
歯を噛み砕きそうな苛立ちをかろうじて押さえた。
「弄んで放置する気だったくせに」
「……仕留めるつもりだったのだが」
ゼランは平然と言い放った。
「上空に妙な気配を感じたのでな、最後まで押し切れなかった」
じろりとアシャを見遣る瞳には、ユーノの教師としての慈愛はない。
「裏切り者」
「違う」
アシャの罵倒に冷やかに応じる。
「もともとセレド側ではなかったのだ」
「何?」
「カザディノ王は様々な手を打つお人でな」
レアナが大人しく嫁いでこないとわかってからは、あの手この手を企んだ。中の1つが刺客の潜入だ。
「皇の信頼を得て親衛隊に加えられ、いつしか隊長と呼ばれるまでになっていた。嫌いではなかったさ、ここの生活も。だが忘れたことなどない、自分の仕事を……もっともそればかりでもなかったが」
「カザド、だったのか」
ユーノが常に緊張し警戒していた隣国の野望は、こんな間近で息を潜めていたのかと苦々しい顔になったアシャに、ゼランが剣を構える。




