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祭で人々が出払っていてよかった。
「剣士さま? どうされましたか」
「慣れない酒で寄って吐き戻した、しばらく静かに休ませてやりたいので奥を借りるぞ」
「まあそれはそれは」
留守番をしていた若い男が上半身裸のアシャとその腕に抱えられているユーノを心配そうに見遣ってくるのに、自分がついているから祭に出かけてきてもいいと促すと、男は喜んで家を出ていった。
とりあえず汚れを水で拭き浄めて連れ戻ったのは、敵にユーノが生きていると知らせたくなかったからだ。生死が不明となれば、そうすぐには次の手を打ってこないだろう。アシャが駆け付けたのもわかっているなら、もう一度策を練り直すはずだ。
「血の臭いには勘付かれなかった、か」
ほっとしてユーノを抱えたまま、借りていた部屋に入り、脚で扉を閉めて、まずは床に横たえる。手当てが済んでからベッドできちんと眠らせてやりたかった。こういうときには粗末な木の床がありがたい。
降ろした時の痛みで微かに唸ったユーノは、それでも目を開かない。真っ白な顔を見ながら、アシャは水と布を用意した。窓を閉め、扉に椅子をかませる。
成りゆきとは言え、レクスファに医療道具を置いていて助かった。吐息をつきながら上着を開き、広げたそこで静かにユーノの体を俯せ呼吸に注意する。
強心剤はよく効いているようだ。拍動は早いがしっかりしていて、少しほっとする。
「痛み止めも呑ませてやりたいが」
今すぐには無理だな、と顔をしかめながら側の机に薬を並べた。手当ての間、悲鳴を上げられてはまずいが、ようやく生死の境を越えさせたのに、その口を布で封じることなどできない。できるだけ丁寧に素早く処置して、叫び声に誰かが駆け付けてきても、夢でうなされた、と言い抜けられるといい。
(夢、か)
ユーノがうなされた夢を思い出した。あれもまた、そういうものだったのだろうか。
べっとり朱色に染まったシャツを取り除く。思ったよりは傷が浅かった。本当はとどめを刺すところだったのが、アシャが近寄ったために諦めたのだろう。
だがそれは逆に、首を締め、背中を裂いた目的が殺戮でなかったことを教えている。殺すだけではなく、いたぶろうとした気配が濃厚だ。
「……」
じり、とまた冷やかな怒りが滲みかけて、指先に意識を集中した。自分がひどく怒っていることを自覚する。不用意に刺激されて爆発しないように怒りをコントロールする。
シャツを剥がし、ユーノの衣類を切り開いた。着替えはとりあえずアシャのシャツにするとして、と水に濡らした布で傷とその周囲を拭っていったアシャは、下から現れたものに息を呑んだ。
傷。
「何…だ……これは…」
今切り裂かれた傷の真下にも、同じぐらい、いやもっと深い傷がある。脳裏を過ったのは、ここへ来るまでにカザドで襲撃されたことだ。掠っただけの傷に苦しんだユーノの腕には古傷が口を開けていた。
「…」
不安に襲われながら、急いで周囲も改める。
傷。
傷。
背中全体を埋めるように引きつれた、無数の傷痕。
「まさか…」
残っていた衣類を切って開き、次々に現れる傷痕に凍りついた。
「ば…かな…」
ユーノのほぼ全身を、大小さまざまな傷痕が覆っている。柔らかな布をそこら中裂いて無骨に縫い合わせたような、あるいは焼きごてで押したようにつるりと光った、そしてまた、見えないいろいろな太さの糸を彫り込んだような傷が、背中と言わず、華奢な首の付け根から肩、腕、微かに膨らんでいる胸や丸い臀部、大腿下腿に至るまで縦横に広がっている。かろうじて見当たらないのが手足の先と首から顔程度、つまりはユーノが衣服をつけていないところで。
「く」
着れる、わけがない。
歯を食いしばって、とっさに詰りそうになったのを堪え、アシャは手当てを進めた。丁寧に洗い、止血剤を塗り、接着剤を塗り重ねて傷を引き寄せ、テープで止めていく。透けるほど薄い布を当て、厚めの布を重ね、包帯で丁寧に巻き包む。
「…」
指先が冷たくなっているのは、恐怖ではない、怒りからだ。
ドレスが着れるわけがない。
17の娘がこれだけの傷痕を晒す気にはなれない。ましてや、その傷の理由を説明する術を封じられているユーノが、晒すわけもない。
3人の娘の揃いのドレスをと望むミアナ皇妃は、本当に全く気付かなかったのか。これほどの傷は治るのにも時間がかかったはずだ。発熱もあったはずだ。眠ることもできなかったはずだ。なのに。これでは。
「生きていたほうが、奇跡、だったんじゃないか…」
包んでやると、アシャのシャツの中でユーノの体が痛々しいほど小さく見える。そっと抱き上げてベッドに寝かせ、汚れてぐしょぐしょになった衣類の片付けをしながら、アシャの胸には苛立ちと激情が渦巻いている。
なぜだ。
なぜだ。
なぜ、こいつだけが、こんな状態で放っておかれている。
あれほど平和そうな国で。
親衛隊まで職務を離れて踊りに興じるような世界で、暗い庭で、建物の影で、木立の下で、ユーノは幾晩眠れぬ夜を過ごしていたのか。
「ち、いっっ」
殴りつけたい、誰よりもまず、自分の頬を。なぜならアシャは、きっとユーノのその状態に遠からぬ責任があるはずだ、いや、今もきっと。
鋭い舌打ちをしたとたん、背後で微かに声がして、アシャは振り返った。
「……シャ……?」
「気がついたか」
「………ど……してここ…………姉さま………っっ!」
「馬鹿っ!」
ぼんやり瞳を開けたユーノがはっとしたように跳ね起きかけて凍りつく。とっさに激痛に唇を噛んでベッドに倒れ込む相手に、アシャは駆け寄る。
(また、悲鳴を噛み殺した)
きっとそれは習性なのだ。悲鳴をあげては弱っていると教えるようなものだから。今が勝機だと知らせるようなものだから。次は確実にそこを狙われるから。
だからユーノは悲鳴を上げない。
だがそれは、救出を遅らせる。助けの手を遠ざける。死ぬまで放置されてしまう。
(だから)
あれほど酷い傷を全身に負うしかなくて。1度切られた場所を無意識に避けるから、その隙間を縫うように傷を受けていくしかなくて。
「どうして…っ」
瞳を涙で曇らせながらも険しい顔でユーノが唸る。
「あいつが姉さまのところに戻ったら…っ」
「大丈夫だ」
「だってっ」
「お前の生死が不明だ」
「え…?」
「お前が生きているか死んでいるか、確かめてから動くはずだ。わざわざあんな場所でお前を狙った」
だから、事は密かに進めたかったはずだ。
「俺が早く駆け付けたから手順が狂った」
今頃慌てて確認しているはずだ。
安心させるように畳み掛けると、きりきりと歯を食いしばっていたユーノが、ゆっくり眉を緩め、ほ、う、と溜め息をついた。ゆっくりとベッドに沈み込み、ふと不安そうに瞬きして手を上げる。
「あ…っ」
「どうした?」
「ボクの…服…」
「ああ、使い物にならなくなったから処分した。………俺のじゃ不満か」
ぎゅ、と襟元をかき寄せ握り締める仕草に微妙にむっとした。
「違う…」
「じゃあなんだ」
「……見た……?」
「…………ああ」
「っ…」
びくり、とユーノが震えた。大きく見開いた目が揺れる。




