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ダレガ。ダレガ。ダレガ。ダレガ。
頭には何万匹という羽虫が詰め込まれたように1つのことばだけが唸っている。首を振り、過熱した視界を瞬きながらユーノを地面に横たえて上着とシャツを脱ぎ捨てた。心音は弱い。背中にシャツをあて上着を当て、もう一度唇から息を吹き込み、呼吸を確かめる。
「ユーノっっ」
呼び掛け、脈拍を確認し、弱まるかけるのに冷や汗を流しながら再び人工呼吸を試みる。出血が多い。背中を抉られ首まで締められて、こんなところに放り出されて、そう思った時点で凍るような怒りに叫びそうになる。
ダレガ。ダレガ。ダレガ。
ゼッタイ、ミツケテ、コロシテヤル。
落ち着け、と頭の奥で静かな『太皇』の声がした。
そこはラズーンではない。
(わかってる)
十分な設備はない。
(わかってる)
視野が狭くなり、冷静な判断を欠いている。
(わかって、いるっ)
そのままではその娘は助からない。
「く、っ」
アシャは歯を食いしばって体を起こした。目の前のユーノから、閉じた瞳から零れている涙から、一瞬目を閉じ、無理矢理意識を切り離す。
落ち着け。
崩れるな。
今ここでお前が『人』を失ってしまったらどうする。
それこそ、世界の破滅につながるだけだぞ。
呼吸を整えて眼を開けた。
心臓は動いている。呼吸は微かだが続いている。出血はどうだ、傷の程度は、深さは、今必要な手当ては何だ。
そっと抱き起こし、体温と拍動の強さと早さを再確認する。背中のシャツは血に染まってべっとり濡れているが、それが張り付いたせいで一時的な防護膜にはなっている。血の気を失って白い体を上着でくるみ抱き寄せる。後は一刻も早く保温し傷の手当てをして、ああ、その前に。
上着の懐から朱に染まった小袋を取り出した。中から青い丸薬を取り出して含み、ユーノの唇に舌で押し入れる。苦味を帯びているはずの丸薬、ユーノの血の香りが口の中に広がって咽せそうになる。
「…んふ…っ」
喘いだユーノが息苦しそうに眉を寄せながら薄目を開いた。溜まっていた涙が零れ落ち、それでも抵抗できずにアシャが含ませた丸薬を飲み下す。震える唇が微かに動く。
たす、けて。
「大丈夫だ」
心臓を鈎爪に握りしめられたように苦しくて、アシャは唸った。
「今呑んだのは強心作用がある薬だ、助けてやる、心配するな」
平静を保とうとして声が平板になった。頭の中の羽虫は静かになっているが、沸き上がってくる怒りの冷たさが尋常ではない。
ユルセナイ。
ナニモノデアロウト、ユルスコトナド、オレニハデキナイ。
ざわざわと身内を走る闇の気配を必死に堪えてことばを絞り出す。
それほど、大事なのか、この娘は。
それほどお前の制御を狂わせるのか。
自問するが答えは激情に溶けてことばにならない。
シヌナ。
オレノウデノナカデ、イクナ。
「俺が、絶対、助けてやる」
「ち…が…」
ユーノがわずかに首を振った。
「たす…け……姉…さま…」
「レアナ?」
てっきり自分を救ってくれと言われているのだと思い込んでいたアシャは眉をしかめる。少しずつ薬が効いてきているのか、心臓の拍動も呼吸も次第にはっきりしてくるのと同時に、抱えた腕に再び温かく広がり始める血に苛立って抱き上げると、小さく呻いてユーノが震える手でアシャの胸にすがった。真っ赤に濡れた指が自分の胸に紅の筋を描く、ユーノが楽になるなら、そのまま突き立ててくれても構わない、そう思ったアシャの耳に、
「姉…さま…が………あぶ…な…」
「違うだろう!」
祭りに浮かれる人々に見咎められないように裏路地へ入り込もうとしながら怒鳴った。
「お前が、危ないんだぞ!」
こんなときまで、どうして、レアナのことなんか。吐き捨てそうになって危うく踏み止まる。
「ち…が……っう」
がたがた震えながら、ユーノが涙で一杯の目で見上げてきた。
「私……襲った……の……5年……前……」
「5年前?」
荒い呼吸を吐きながら、ユーノは切ない表情に顔を歪める。
「5年間………ずっと……」
味方…だって……思って……た、のに。
「あん…まり…だ………」
「ユーノ? ユーノっ! おいっ……く、そっ」
掠れた声で呟いたユーノは自嘲するように眉を上げると、そのままアシャの腕で気を失った。




