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「ん…ぅ」
ユーノはうなされている。
「…いじょ……ぶ」
夢の中で引き戻されたのは、初めてカザドに襲われた夜。
逃げ場もなく、ただ家族を守るために闘うことを求められた日。
「大丈夫……だから……心配……しない…で…」
喘ぎながら笑う。
精一杯の虚勢はいつも成功した。
誰も気づかない、ユーノの奥深くに抉られた、深い傷の在り処を。
「レアナ姉さま!」
大好きな姉の姿を見つけて、ユーノは満面の笑みで駆け寄り、すぐに気づいた。
レアナの美しい眉のあたりに心配そうな影が漂っている。
「どうしたの、姉さま」
「変な人たちが来てんの」
10歳のセアラが生意気な口調で言い放った。
「だめよ、セアラ」
レアナが柔らかくたしなめる。
「お父さまのお客さまよ」
「変な人は変よ」
14歳のレアナの分別をセアラは聞き入れない。
「……そうだな」
ユーノが物陰から伺った一群の男達は隣国カザドの紋章をつけている。謁見に際して剣を外していないのが不安だったが、セレドの親衛隊は咎めようとしない。
3人は知らなかったが、その頃、日ごとに美しくなるレアナの噂を聞き付けたカザディノが、レアナを『副妃』として迎えたいと言ってよこしていたのだった。
単に使者だけではなく武装した兵も同行させたのを見ても、相手の意図が強圧的なのはわかったが、セレディス4世も、仮にも一国の皇女を『正妃』ならまだしも『副妃』などとはとんでもないとはねつけた。その場では無理を通すなと言い含められていたらしく、使者達は一晩留まることもなくすぐに帰還した。
だが、実はレアナを望むことさえ、セレドに警戒されずに入り込むための手段だったとは、その夜にわかった。
「?」
ふいとユーノは目を覚まして訝った。
闇に妙な気配がある。
7歳から皇宮の作法やダンスよりも熱心にゼランに剣を学んでいたのは偶然ではない。悪意はないとは言え、母親譲りの華やかな容姿を持つ姉妹と繰り返し比べられて、自分が外見では遥かに劣ることを早くから理解していた彼女は、自分の未来に誰かが寄り添うことを早々と諦めつつあった。
「……」
ひたひたと夜の向こうから迫ってくる殺気に瞬きして、ゆっくりと体を起こす。枕元に忍ばせていたのは覚えつつあった短剣、それに手を伸ばしたとたん、
「でええいっ!」「っ」
部屋の隅に潜んでいたらしい影が剣を突き出してきた。かろうじて一太刀目は躱したものの、すぐに繰り出されたニ太刀目がざくりと右腕を削いでいく。
「っっ!」
(母、さまっ)
痛みに声も出せずに心の中で悲鳴を上げたユーノの手から、落ちた短剣がからからと軽い音をたてて床を滑る。痺れた右腕を押さえる間もなく、刺客は次の一手を振り上げてくる。
(殺される?!)
咄嗟に掴んだシーツを相手に投げ付けて視界を遮り、落ちた剣を拾ってそのまま、のしかかってきた相手の胴へシーツ越しに突き入れる。
「ぎゃあっ」
まさか幼い子どもが反撃してくるとは思ってもいなかったのだろう、叫んだ刺客が体を引いて剣を抜こうとするのを、ユーノはなおも突き込んだ。
一度傷を負わせたなら、そこを必ず狙いなさい。一番守りが弱くなっているうえ、深手になれば勝機ができる。
脳裏に過るのはゼランの声だ。
相手とユーノには圧倒的な体格差がある。ましてや、既に右腕を傷つけているユーノは次の攻撃の術がない。
(剣は両腕で使えないとだめ、なんだ)
歯を食い縛りながら、ユーノは思い知る。必死に体ごと刺客にぶつかり続け、押し込み続ける。隙間ができてしまえば最後、手負いの敵は必ずこちらを仕留めにくる。
(離れるな、離れちゃやられる)
刺さった短剣の向こうの感触は、食卓に並ぶ肉を刺した感覚より遥かに鮮烈、ともすれば蠢く体の動きに剣が呑み込まれて跳ね飛ばされそうになる。押し返す力も半端ではなく強い。
生きてるんだ、とぞくぞくしながら思った。
(生きてる命を、突き刺している)
「く、ぁ、あ、あっ」
迸るように叫んだのは流れ落ちてくる涙を堪え切れなくなったからだ。
剣を使うということは、人を殺すということは、これほど全身痛いものなんだ。ゼランに教えてもらった型なんて、ほんの入り口に過ぎないんだ。今こうして相手の胴に突き出し続ける剣を支える手が震える。体もがくがく震える。シーツを濡らしてだらだら染み通ってくる血の生臭さに吐きそうで、それでも力を緩めれば、ユーノが死ぬのは確実で。
(いや、だ)
ぎゅ、と唇を噛んで、なおも全身で突っ込んだ。
「ぐ、ああっ!」
絶叫が耳を圧する。痙攣した刺客が剣を落とし、がつっとユーノの肩を掴む。その10本の指が食い込む感触に、泣きながらユーノは剣を突き上げた。
「がはっ」
ばしゃっ、と被ったシーツに血が降った。同時に男が崩れてきた。肩を掴まれたまま巻き込まれ押し倒されそうになって初めて、剣を引き抜き飛び退る。
いや、ユーノは飛び退ったつもりだったが、実際は後ずさりしてシーツに引っ掛かり、腰から背後に転がっただけ、それでも空いた空間にどぅ、と音をたてて刺客の体が丸太のように倒れてきた。
咄嗟に剣を構えたが、もうピクリとも動かない。
「う…っ、…っは…っは」
喘ぎながら睨み付けた刺客は男だった。黒づくめの服装、紋章はどこにもないが、引きつり白目を剥いた顔には覚えがある。昼間に謁見を申し出た1人だ。
(カザド)
う、わあっ、と皇宮の別棟で声が上がって、はっとした。
(姉さま、セアラ…っ)
跳ね起きて立ち上がろうとするのに、脚が震えて立てない。脚だけではない、自分が今にも溺れかけたようなせわしい息を吐きながら、ぼろぼろ泣き続けているのがわかる。
男はシーツに包まれたまま、どんどん熱気を失っていく。少し覗いた血まみれの指が固く白くなっていくのから目を逸らせなくて、それを見ているだけでも吐きそうで、ユーノは喉を鳴らした。
「う…、ううっ」
自分の体を、強ばって短剣を放せなくなっている右手で抱える。左手で右腕の傷を押さえつけたが、痛みにびくりと震えてしまって、身を竦めてまた泣いた。
冷や汗が額から眉間を通って流れ落ちてくる。きつく唇を噛みしめて、口の中に自分の血を吸い取って、ようやく少し我に返った。
のろのろと這いずって死体から離れ、震えながらガウンを引き寄せ右肩から羽織る。どこに敵が居るかわからない。次に同じ場所を狙われたら、もう気力も体力ももたない。
(痛い……母さま……すごく…痛いよ)
誰も来てくれないのは、別棟の騒ぎで手一杯になっているのだろう。そこにきっと父母も居る。どんどん冷たくなってくる右腕の手当てもしてもらえるはずだ。痛かったろう、一人でよく頑張ったと慰めてもらえるはずだ。
「ひ…っう」
大声を上げて泣きたいのを堪えて、ユーノは部屋をよろめきでた。無限に続くような廊下をのろのろと歩いて、ようやく父母の寝室にたどりつく。
「かあ…さ」
ほっとして顔を上げたとたん、その扉の中から飛び出してきた人影に息を呑んだ。もう右手では痺れて持てなかったから左手に持ち替えていた剣を、かろうじて引き上げて構えると、
「ユーノ様!」
「ぜ…らん…」
親衛隊の隊長は豪快に笑った。
「おお、見事防がれたのですね! さすがはユーノ様!」
「あ……う、ん」
「それでこそユーノ様です! 私は皇をお守りしに参ります、皇妃さま方をお頼みしますぞ!」
「え…」
茫然とするユーノを置き去り、ゼランはあっという間に広間の方へ駆け去った。




