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「どうして!」
「いいから!」
何か策がある、と感じて突っ込んできたレガの鼻先から瞬間跳ね起き、示された出口の方へ走り出す。急に動いたアシャに気を取られたのだろう、体から言えば驚くほど小さな前足を地面について、レガが体を丸めて後ろ足を引き寄せ、追撃にかかろうとして動きを止めた。
「は、ああっ!」
ユーノの叫びに肩越しに振り返ったとたん、側の岩棚を蹴り、天井近くの壁をなお蹴りつけ、気配に振仰いだレガの正面に身を投げるユーノの姿が見えた。大きく開く口に怯んだ様子もない、左腕が痛むのか、微かに顔を歪めながら、それでも寸分のずれもなく、牙にドレスを引き裂かれながらも残った複眼にアシャの短剣を突き立てて、渾身の力で押し込んでいく。
ギャアアアアーッッ!
洞窟をレガの絶叫が満たした。耳を圧する音量が恨めし気に何度もこだまを呼びながら遠ざかり消えていく。地響きを立てて倒れるレガから短剣を抜き放つユーノは裂かれたドレスに鮮血を浴び、髪の花を舞い散らせながらレガを蹴ってその向こうへ飛び下りる。
やがて、どこに引っ掛かっていたのか、か…ん、と寂しい音を立てて櫛が降ってきた。
それを合図にしたように、ひくひくとレガの腹に痙攣が広がり、ぐぼ、と吐き気を催す音をたてて開いた口からどろどろした体液を吐く。
「ふ…う」
(仕留めたぞ、おい)
レガは確かに単純で的確な攻撃さえすれば倒せないものではない、それでも太古生物の中ではそれほど容易く仕留められる相手ではないのだ。
なのに、ユーノはアシャを囮にしたとは言え、1人で倒してしまった。
(とんでもない娘だな)
「ユーノ、お前はたいした………ユーノ?」
興奮して駆け寄りながら、アシャは飛び下りたユーノが膝をついた姿勢のまま身動きしないのに気がついた。
「怪我をしたのか?!」
慌ててレガを飛び越え、側に寄り、そうではないことを知る。
ユーノは大きく目を見開いてまっすぐ前を見つめていた。レガに襲われても平然としていた顔が今は白く色を失っている。
「ユーノ……?」
「……娘…達」
「え?」
ユーノの視線の先を追って、アシャは舌打ちした。レガだと気付いたのなら当然娘達の運命にも思い至ってよかったのだ。前に回り込み、視界を遮るように立ち塞がって、茫然としているユーノの体を抱きかかえる。
「……なぜ……?」
「……」
「……娘達……食べられて…ない……」
「ちっ」
(そんなところまで見てしまったのか)
「ユーノ」
「や、待って、待って、アシャっ」
抱え上げて、その場から連れ出そうとするアシャに抵抗し、小さな悲鳴を上げてユーノが見上げてくる。
「なぜ…?」
「ユーノ」
「娘達、生きてない、とは、思ってたんだ、だけど、でも、あれは」
黒い瞳が怒りを込めて潤んでいる。
「食べて、ない、アシャ」
「……ああ」
「どうして? 食べるために娘達を攫ったんじゃなかったの?」
「……ユーノ」
「なぜ、あんな、ばらばらで、放ったままで、いっぱいあって、まるで遊んだみたいに……っ」
びくりとユーノが震える。
「遊んだ……?」
「………ユーノ」
嫌がる相手を引き起こし、抱き込みながら瞳を覗き込む。
「レガは喰わないんだ」
「……え?」
「レガは人間を食べない……ただ、おもちゃには、する」
「っっ」
「腐ってばらばらになったら終わり、次のおもちゃを探しに行く、そういうことだ」
「……だ…って」
ユーノが眉を寄せた。
「そんな…こと……言えない……言えないよ…っ」
しがみついてくるユーノが身悶える。
「あの人達に、そんなこと言えないっっ!」
「………わかってる」
「私……私…っ」
余計なこと、したの?
「違う」
辛そうで苦しそうで、その傷みを一瞬でも減らしてやりたくて、アシャは思わずユーノを抱き寄せた。ふわりと常ならぬ頼りなさで、そのまま腕におさまってくれる、そう見えた。だが。
次の一瞬、くん、とユーノは腕を突っ張った。
「?」
「……………ごめん…ありがとう…でも、アシャ」
動きを止めたアシャに掠れた声でユーノが呟き、ゆっくりと顔を上げてくる。泣きじゃくっていたように見えたけれど、その頬には涙の跡はない。
「『女の人』はそういう仕草はしないんだ」
「おい」
「そのまま旅をしたら? イルファが喜ぶよ」
「こら」
(何だ、今の今までこの腕におさまっていたんじゃなかったのか)
急に冷えた胸にアシャは戸惑い苛立った。
(俺を求めたんじゃなかったのか)
しぶしぶ腕を降ろしていくアシャにくすりと小さな笑い声まであげて、ユーノはくるりと背中を向けた。
「帰ろう……もう用はない」
「ユーノぉっ!!」
「レス!」
駆け寄る顔にユーノは手を振る。
洞窟を出ると我慢仕切れなかったらしいイルファとレスファートが迎えに来ていた。
「山賊達、おかしくなってたね?」
洞窟を振り返りながら、ユーノがアシャに尋ねてくる。
レガが倒れた後、再び男達と一戦交えることになるかと警戒したのだが、山賊達は腑抜けのように洞窟のあちこちで虚ろな目を見開いて転がるように倒れており、生きてはいたが何の反応も見せなかった。
「レガの声にはある種の催眠効果がある。レガの意志と共通している部分を持ったものを従えることができるからな………だが、本体が死ねば、操り糸の切れた人形と同じだ」
「しかし、レガとはなあ」
話を聞いたイルファが呆れ返る。
「一体世界はどうなっちまったんだ。そんなやつらはとっくの昔に滅びたんじゃなかったのか」
「……太古生物はお話の中にしかいないって、父様はいってたよ」
「何か……起こってるのかな」
レスファートのことばに振り切るように洞窟に背中を向けるユーノが、物問いたげにアシャを見る。
「……そうだな」
アシャは曖昧に頷いて視線を逸らせる。そのまま遥か高みを、星が煌めき出した空を見上げた。
「世界は広い、からな」
アシャは知っている。
なぜレガがこんなところに巣食っているのか。
本当はレガだけではない、太古生物と呼ばれた怪物や化け物達がなぜ次々蘇り始めているのかを、アシャは知っている。
知っていながら、根本原因を制御することなく逃げている。
(そう、だ)
逃げている、のだ。
「主人には……俺が説明しよう」
「え?」
「お前は何も言わなくていい」
ユーノにそっと囁いた。
「でも」
「……俺向きの、仕事だろ?」
ひょいと振り向いて、にやりと笑ってみせる。
「ああ、口先だけでごまかすってやつな!」
「う」
イルファが腑に落ちた顔で大きく頷く。
「くちさきさんずんのでっちあげってこと?」
レスファートがとどめを刺した。
「そうですよ~、レスはよく御存じですね~」
「人を詐欺師みたいに言うな」
「違うのか」
イルファが憮然としながらアシャを指差した。
「?」
「その格好が既に詐欺だ」
「は?」
「女にしか見えん」
「……ほっといてくれ」
うんうん、そうだね、とユーノがようやく少し笑って、その瞳が微かに潤んでいるのを見ながら、今夜はイルファに勝ちを譲るか、とアシャは思った。




