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「俺だって映るんだし、正体もわかるぞ?」
「しょ、正体?」
「俺が何者だか知りたくないか?」
「う」
ユーノが胸に掴まったまま、思い詰めた顔で見つめてくる。セレドやこの先の旅のためには確かめておきたい、けれど自分の姿を見られたくない。心の天秤がゆらゆら揺れているのがわかる。
「……知りたい」
「じゃあ」
「いや、でも、あ、あ、やだっ!」
すたすたと泉の縁まで近寄ったアシャに小さく悲鳴を上げて、ユーノはアシャの胸に顔を伏せてしがみついた。映った姿を見られまいとしたのか小さく縮こまる仕種、けれど布数枚隔てただけで寄り添った体は予想以上に甘くて。
(ユーノ)
ごく、と無意識に唾を飲み込んだのに、ユーノが震える。
(まだ……男、を知らない体)
吹き上がりそうになった気持ちを押し込めて、そのまま静かに泉を覗き込んだとたん、激情に冷水を浴びせられた。
(やはり……)
泉の面にはユーノを抱えたアシャの姿が金色のオーラを纏って光っている。そして、腕の中に潜り込むようなユーノの姿は淡く微かに銀色の靄に包まれている。
(『銀の王族』、か)
胸が痛んだのは、『銀の王族』がラズーンに果たす意味を知っているからだ。『銀の王族』を必要とするこの世界の仕組みを知っているからだ。そして、『銀の王族』に対してラズーンが行う儀式がどんなものであるかも知っているからだ。
一瞬、このまま全てを捨てて攫いたい、と思った。
ラズーンへ着けば、ユーノは酷い苦痛を味わうことになる。アシャのことさえ忘れてしまうかもしれない。故郷セレドに戻れる可能性も少ない。
これほど必死に家族を思い、国を思い、辛い旅に耐えていくのに、見返りは余りにも少ない。その宿命故に、定められたときまで『銀の王族』は他の者より平穏と安楽を約束された人生を送っているはずなのに、ユーノはささやかな喜びさえ奪われて生きている。
それがラズーンの制御が外れてきてることを示し、ならばこそ必要な『銀の王族』として召集されているとは言え、せめてもう少し幸福な笑みをこの娘に保証してやれなかったのか。
切なく眉を寄せ奥歯を噛みしめて、アシャは泉に砂を蹴り落とした。波紋が広がり、絡み合うような金銀に包まれた2人の姿を消していく。
(幻の)
決して結ばれない王と王妃の物語を思い出す。
(俺は…)
首を振って気持ちを切り替えた。ゆっくり向きを変え、泉から離れる。
「ユーノ」
薄赤く染まった耳に囁く。
「………人が悪い」
唇を噛んだユーノが半泣きになった顔をそろそろと上げた。
「最低だ、人が身動きできない時に」
「すまない……けれど、うまく姿が映らなかった」
すまない、と繰り返す。謝罪は2つの意味を含む。
「え?」
「風のせいかな、水面が揺れて乱れてな」
笑いかけると、ユーノが露骨にほっとした顔になった。
「なんだ」
「すまん」
「無茶をするから、泉の神様に嫌われたんだ」
「そうかもしれないな」
悪戯っぽく笑うユーノに笑み返す。
(泉の神様に嫌われた)
真実はこれほど惨い。
(俺は)
命の泉に嫌われている。
ふいにびくりとユーノが震えた。
たまたまとは言え、アシャの胸にしがみついたまま甘えている、それにようやく気付いたのだろう、なおも赤くなっていきながら、それでも囚われたようにアシャを見ている。戸惑うような黒い瞳が微かに潤む。小さな唇が薄く開いたままだ。
「心の中を…見られるのはごめんだ……」
「ああ」
掠れた柔らかな声が囁くのに、アシャは距離を縮める。満更知らないわけじゃない、眠っているときには奪ったこともある、ただしあのときは髪で、唇、ではない、だが、今なら。
(俺は)
真実を暴いた罪は唇で購うものではなかったか?
見つめあった数瞬後、すい、と唐突にユーノが目を逸らせて瞼を伏せた。顔も同時に伏せられて、焦茶色の髪が視界に広がる。
「……アシャ」
「ん」
「降ろして。もう歩ける」
「……」
「イルファやレスが心配してる」
「……そう、だな」
腕を解くと流れ落ちるようにユーノが体を離した。あっという間に熱が去って、寒い感触だけが残される。それが思ってもいなかったほど痛くて、アシャは茫然とした。
(俺は)
何だろう、かけがえのないものを失った?
「行くよ」
「……ああ」
そういうこと、なのか、と思った。
ユーノはアシャに気持ちを向けないということなのか。
なぜだ、と振り向かせて言い募りたくなった。自惚れかも知れない、けれどなぜだ、なぜ俺では駄目なんだ、と。
胸に閃いた答えを無視するように吐く。
(なぜ、俺では駄目だ?)
だが、尋ねた瞬間、今開いたこの距離がもっと大きく裂けてしまい、2度と笑みさえ見せてくれないのではないか、そんな恐怖が襲ってアシャは戸惑いうろたえた。
(俺は……怖がってる…?)
ユーノに手さえ触れられないことを?
「アシャ?」
「んっ」
数歩離れたユーノが突然振り返る。にこ、と小さく笑って付け加えた。
「探しに来てくれて、ありがとう」




