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静まり返った森に3頭の馬の穏やかな蹄の音が響く。
「……と」
「扱いにくそうだな、ユーノ」
先頭のユーノが手綱を何度も引くのに、アシャは笑って声をかけた。
むっとしたようにユーノが振り返り、眉を寄せながら肩越しに応じる。
「そんなことはないよ。ヒストは良い馬だ」
その実、額に『白い星』がある栗毛を扱い倦ねているのは明らかだ。レノの乗りやすさから言えば格段に差がある馬だ。
(いじっぱりめ)
アシャは苦笑する。
気性の激しいヒストはレダト王から贈られた。一緒に度重なる襲撃をくぐり抜けてきたあの白馬を、ユーノは今度の旅には連れてこなかった。
「どうしてレノを置いてきた?」
問いにユーノは顔を背けて淡々と答える。頬に柔らかな陽射しが滑る。
「……レノはボクにとって家族だ。こんな危険な旅に連れてくることはない」
「それは違うだろう」
3頭目、がっしりした体をゆさゆさと馬の足並みに揺らせているイルファが割り込み、アシャと並んだ。
「家族ほど信頼できる馬なればこそ生死をかけた旅へも連れていく。それが普通だろうが」
くす、とユーノは低く微かに嗤った。
「生死を『賭けて』いるならね」
皮肉な調子にアシャの胸に不安な渦が動く。
(生きて戻る気が、ないのか?)
それほど、ユーノの声はそっけなくて寒い。
「レス、怒ってるだろうな」
ふいとユーノは口調を変えた。遠い空を瞳で探る。
「え?」
「……置いてきちゃったから」
「ああ」
アシャは出てくる間際の騒ぎを思い出した。
「な、なにっ!」
庭園でのやりとりをイルファから聞かされたレダト王はぎょっとした。
「レスファートが『誓った』というのか?!」
「はい」
イルファは苦い顔でアシャに視線を投げてきたが、俺は知らない、と肩を竦めて茶色の目を見返す。お前なあ。そう言いたげに、眉をしかめてイルファが王に目を戻す。
「それも、旅の者に、だと?」
「あのユーノとかいう若造に。『誓い』を知らないのをいいことに御自分の名を与えられたのです」
「ううむ…どうしてまた」
重い溜め息をついたレダト王は額に縦皺を寄せ、側でにこにこと無邪気な笑みを浮かべているレスファートを睨んだ。
つまり、こういうことだ。
レスファートがユーノに求めた『約束の仕方』というのは、レクスファにおいては、他ならぬ永世忠誠の誓いだった。相手が女性なら永遠の愛の誓い、男性ならば下僕となってでも仕えようという意思表示、それは自分の人生を相手に与えることを意味する。
自分の名を与えることを宣言し、捧げた剣を相手が受け取り鞘におさめることで、誓いは封印され威力を持つとされていた。破ったものへの天罰は数知れず語られているが、何よりそこには己の信念をかけての誇りがあり、万が一にも反故にすれば、生涯卑怯者と呼ばれることを甘受することになる。
ユーノは知らずに忠誠の誓いを受けてしまったのだ。
しかし、レスファートは少年、対するユーノはラズーンへの危険な旅の真っ最中、誓いの無謀さは一目瞭然だった。
「…わかった。王子とはいえ、誓いを破ることはならん」
ぱっと顔を輝かせるレスファートに苦々しく頷き、アシャに向き直って、
「何分にも幼き者のこと、十分に配慮していただきたい」
ちらりと同時に送られた目配せに気付いたアシャは微笑みながら答えた。
「わかりました。王子様の御心、我らもじっくりと考えることにいたしましょう」
その夜、レスファートが寝入った後にユーノ達は王から内々の話を聞いた。
曰く、レスファートは幼い頃に失った母の面影をことさら追っていること。王とは互いに心を感じるがゆえに微妙な距離を置かざるを得ないこと。レスファートの他に世継ぎはなく、王妃亡き後誰とも再縁しなかった王としてはレスファートを失うわけにはいかないこと。
「しかし、な」
レダト王は複雑な顔で付け加えた。
「心を読めても、人の思いの複雑さ豊かさは様々な経験を通じて我がものとして実っていくもの、ここにおっては甘やかしてばかりで、次代を担う経験を積めようはずがないとも思っておるのだ」
一晩話し合ったがこれと思う結論はでなかった。
結局、どうしてもついていくと言い張ったイルファだけを連れ、翌朝早くユーノ達はそっと白亜城を抜け出した。
(ごめんね、レス)
ユーノは胸で謝り、ほろ苦い痛みを味わった。
レスファートが慕ってくれるのは嬉しかったが、旅の危険は十二分に味わいつつある。5、6歳の、しかも王子さま育ちのレスファートが耐えられるようなものではない。しかも、カザドを引きつけての旅路が安全なはずもない。
「体の具合は?」
「かなりいいよ。もうほとんど大丈夫」
馬身を並べてきたアシャにユーノは強いて明るく応じる。
「アシャの薬、すごくよく効いた。何なの、あれ?」
「鉄剤とビタミン剤が主成分」
「てつざい……びたみん…それ、薬の名前?」
聞き覚えのないことばにきょとんとすると、例の不思議な微笑で応じられた。瞳を細め,眉を下げ、そのくせ笑っているようには全く見えない奇妙な笑顔。
「俺の生まれた国では『そういうもの』がよく調べられていて、な」
「アシャは『そういうこと』に関してはなまじの医術師より詳しいぞ」
イルファが自分のことでもないのに誇らし気に口を挟んできた。
「『太陽の池』作戦の時だって、王や兵の負傷を素早く手当てしてくれた」
「ふぅん」
相変わらず得体が知れない、と横目でアシャを見遣ると、相手は金色の髪を風に舞わせながら、素知らぬ顔で前方を眺めている。もうそろそろ目的地が見えてくるのかとユーノも顔を上げたとたん、ごそごそと背後に積んだ荷物が揺れた。
「?」
何だろうと振り返ろうとした矢先、
「王子!」「ええっ?」
素頓狂なイルファの声が響いて、アシャと同時に慌てて振り返ると目の前で荷物の1つが蠢いた。突然ばさりと被いがめくれて、上気した頬を笑み綻ばせてレスファートが顔を出す。
「へへっ…きゃっ」
「レス……っ、う、わっ!」
バランスを崩したのか、レスファートが馬の背から転がり落ちそうになる。とっさに手綱を引き締めてしまったユーノも体勢を崩し、何とかレスファートを引き寄せたものの、2人一緒に落馬してしまった。