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急いで立ち上がった途端、背後から優しい声が響いてユーノはぎょっとする。
「その方ですか、ユーノ」
「……レアナ姉さま」
振り返ると、レアナは馬車から付き人とともに降りてくるところだった。側にゼランも控えている。
知らせに急いで駆けつけたのだろう、白いドレスを捌きながら、栗色の髪を背中に波打たせ、赤茶色の瞳を慈愛に輝かせている。象牙色の頬はうっすらと染まって、興奮と緊張が見てとれた。目の前の男が大きく目を見開き、レアナに見愡れるのを目の当たりにして、ユーノは思わず身が竦んだ。
(ああ、やっぱり)
一瞬泣きそうになったのを咄嗟に目を逸らせてごまかす。それでも視界の端に、まるで引き寄せられるように近づく2人が入って、胸が痛んだ。
「セレド皇国、第一皇女、レアナです。わがセレドで酷い目に合われたとか?」
「あ、いえ」
男は立ち上がろうとして苦しそうに顔を歪めた。それと察したレアナがそのままにと命じるのに頷き、その場で低く拝跪の礼を取る。
「お国をお騒がせして申し訳ありません。ラズーンのもと、旅に身を委ねるアシャと申します」
「アシャ」
型通りの文句を歯切れよく応じる相手に、レアナが微かに唇を綻ばせた。
(アシャ)
ユーノも胸の中で名前を繰り返す。
また微かに花の香りがした気がして戸惑いながら、そっと顔を元に戻した。花の香りはアシャからだろうか、他の人間は気付かないのだろうか。
「何でしょうか?」
「いえ」
微笑むレアナに見愡れるようなアシャの姿にぽつんと言った。
「アシャというのはここでは女名だ」
胸の中に開いた穴に吹き込む風を感じまいと、振り向いた相手にからかい口調で続ける。
「あなたにはよく似合ってるけどさ」
「ユーノ!」
レアナのたしなめに薄笑いを返して、ユーノはまた視線を逸らせた。
何度も繰り返された光景だ。今さら傷つくほどでもない。
ひねくれて胸の中で呟いてみせる。
(どうせ私は女とは思われていない)
「申し訳ありません。他国よりのお客様に」
「いえ、とんでもない。私は通りすがっただけのものです。それに」
ふいとアシャが奇妙な調子でことばを止めて、ユーノは振り返った。細めた相手の目が笑っていないのに気づく。
「私はこちらで酷い目にあったわけではありません………むしろ助けて頂いたようなもの」
くる、とアシャが唐突にこちらを向いてユーノは固まった。
「ユーノ様に」
アシャは如才なくうやうやしい礼を向けてきた。
「あ」
それが一瞬たとえようもなく嬉しくて、けれど次の一瞬、それは単にこの国の皇族に対する敬いだと気づいて、ユーノは一気に落ち込む。
(そう、だよな)
身寄りのない他国で権力者に逆らうようなへまをする旅人はいない。アシャがユーノに向けたのは、レアナに向けたような純粋な好意ではなくて、保身のための処世術だ。もしユーノが皇族でなければ、笑顔どころか振り向いてもくれないはずだ。
「アシャは今夜の宿はあるのですか?」
「あ、いえ」
「では、皇宮にいらっしゃい」
「は?」
「セレドで困っておられる他国のお客様を放っておくわけには参りません」
「でも、姉さま!」
ユーノは慌てて口を挟んだ。
確かにアシャはカザドのものとは思えない。だからと言って敵ではないと言い切れない。
「何ですか、ユーノ?」
「あ」
まっすぐな瞳でレアナに問い直されて、ユーノは唇を噛んだ。
(話すわけにはいかない)
カザドが何を仕掛けてきているか、ユーノが何を恐れているのか、レアナに打ち明けられはしない。
「では、どうぞ、アシャ」
レアナがにっこりと馬車へ誘う。これもまた見慣れた光景で、ああそうおさまるのか、よかったな、と周囲が頷きあう中、誰も咎めるものはいない。皇族の守護たるゼランでさえも。
むしろアシャの方が眉を寄せてユーノとレアナを見比べていたが、やがて気持ちを切り替えたようににっこりと笑った。
「では、お言葉に甘えます、レアナ様」
「姉さま、私はレノで戻ります」
「わかりました」
唇を噛んで背中を向ける。
うなずくレアナとその後ろへ寄り添っていくようなアシャの姿をもう見ていたくなかった。
「………いつものこと、なのにな」
ざわめく民衆が散り始める。レアナさまはお優しい、あいつはここで行き倒れて幸運だった、俺があいつになりかわりたい、レアナさまと御一緒できるならな、そうおどけたのもいて、どっと賑やかな笑い声があがる。
平和なセレド。明るくて親切でお人好しな民。分け隔てなく身分を越えて民を愛する皇族。
それは素晴らしいことだ、とても美しいことだ。
俯きながらユーノはレノのところに戻った。
何だかひどく疲れていて、そっと愛馬の温かな体にもたれかかる。落ち込んでいる主人に気づいたのか、レノが顔を回して鼻面を寄せてきた。
その温もりにユーノは小さく息をついて目を閉じた。
「大丈夫…………慣れてるから……何でもない」
いつものことだ。たいしたことじゃない。
ユーノが女だとびっくりされ、レアナが美しいと褒められる。
人は皆レアナに憧れ、声をかけられたいと望み、側にいることを幸福に思う。
アシャもそう思っただけだ。誰もが思うのと同じように。
(けど)
また小さな声がユーノの胸で弾けた。
あの頬を放したくなかった。あの瞳の中から消えたくなかった。
あの微笑みを、今度だけは自分に向けて欲しかった。
(馬鹿な)
舌打ちして首を振る。
(そんなことは諦めたはずだ)
それでも未練がましく薄目を開いて、遠ざかる馬車を見た。
「男に………生まれてればなあ……」
ふいに呟いて、その通りだな、と思う。
男であれば、アシャと友人にはなれたかもしれない。焦がれてもらわなくても、旅の話を一緒に酒盛りしながら聞けたかもしれない。
いや、今だってできるだろう、レアナに向けられる眩げな視線さえ気にしなければ。
もう一度首を振ってレノに跨がり、ユーノは俯き加減に皇宮へ向かう。
風が欲しかった。
何もかも吹き飛ばしてくれる風が。
自分の切なさも孤独も、全て消し去ってくれる風を得るために、ユーノは唇を噛んで、ことさらレノを駆り立てた。