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数日後。
ようやく復調したユーノはレスファートと庭園に居た。
「アシャはねえ」
吹き上がった噴水を間一髪で避けたレスファートが、プラチナブロンドに水滴を輝かせながら笑う。
「父さまの友達なんだって」
走り寄ってきた少年に、庭園に面したテラスに立っていたユーノは、笑い返してレスファートの髪を拭ってやる。
「友達?」
「うん……ずっと前、この国が危なかったとき」
少し首を竦めて、甘えるように髪を拭いてもらいながら、レスファートは続けた。
「アシャが助けてくれたんだって」
「ふうん……それで、アシャって、それまで何をしてたの?」
「わかんない」
レスファートはユーノの側に立って体をもたせかけてくる。
「ぼく、知らない。父さまは旅をしていたっていってた」
「旅……」
心の底ではずっと気になっている、アシャが何者なのか、と。もしカザドの戦略か何かで味方のふりをして入り込んできた人間だったら、と。
万が一そうだとしたら、ユーノは敵を連れて回って旅をしていることになる。
(そればかりか、敵に、魅かれてる大馬鹿者だ、ざまあない…)
だが、おそらくはそうではない。もしそうならば街中で倒れているなどという手段は選ばなかったはずだ、皇族が助けるとは限らなかったのだから。
(だが、それなら何者だ?)
美貌に隠されて目立たないが、あの剣の冴え、あれは専門のそれも何か特殊な訓練を受けているものだ。時々見せる意味不明の微笑、年齢にしては深すぎ広汎すぎる知識と経験、ふとした瞬間に妙な沈黙を保つ気配も引っ掛かると言えば引っ掛かる。
しかも、その沈黙はラズーンに絡むことのように思えるのだが、気のせいだろうか。
(どこかの………皇族、とか)
それならあの気品や宮廷作法に関する戸惑いのなさや、人あしらいやダンスや宴の場の卒なさもわかる。
ならばどうしてあんなところで倒れていた? そしてまた、なぜセレドに留まり、あげくにはユーノの付き人などになって、ラズーンへの旅に同行したりしているのだろう。
(それは……わかるな)
小さく苦笑する。
(レアナ、姉さま、だ)
レアナ・セレディス、女神の微笑みを持つ女性に跪かなかった男はいない。
(レアナ姉さまの気持ちを叶えるために、アシャは旅に同行した)
そして、たぶんレアナもアシャに気持ちを向けているのだ、紋章を託すほどだから。
あれはきっと、必ず戻って自分と一緒にセレドを継いでほしいという優しい求愛なのだろう。そして、それをアシャも受け入れた、のではないか。
「ユーノぉ」
レスファートにしがみつかれて、我に返った。
「ユーノは行かないよねぇ」
「え?」
「父さまは、アシャはもう城を出るって………ユーノも行くの?」
見上げてくるアクアマリンの瞳には人恋しさが一杯になっている。
「行かないでしょう? ねえ」
ユーノの左腕にしがみついたまま、レスファートはは身を捩って尋ねてくる。
「…レス」
「ユーノってばぁ…」
何とか『行かない』ということばを言ってほしいのだろう。少年の表情は切ないような、今にも泣き出しそうなものになっている。
「う…うん……」
ユーノは弱った。
行かないというわけにもはいかないし、かといって、レスファートに泣かれてしまうのも困る。惑いを読んだのだろう、唇を噛みしめて、レスファートはぴったりとユーノに身を寄せた。
「ユーノまで行っちゃうの……?」
(ああ、そうか)
レスファートはユーノに母親を見ている。昔に逝ってしまった母親に甘えられなかった分をユーノにぶつけてきている。その、どこへ行っても受けとめてもらえない寂しさ、仲間は居ても不安をさらけだして憩える場所が見つからない心細さはよくわかる。
そっと笑って、いやいやと首を振っているレスファートの頭に手を載せた。
「行っても……帰ってくるから」
レスファートは俯いたまま応えない。
「セレドに戻る前に、必ずレクスファに寄るから」
「……ほんと?」
半分泣いているような声だった。ユーノの心の底を感じ取っているからかもしれないが、それでも戻ってくるということばを信じようとする口ぶりに胸が熱くなって、ユーノは声を励ました。
「ほんと。きっと戻ってくるから」
それは………危うい約束だ。
ユーノが生きて戻ってこれる確率はほとんどない。カザドの刺客をしのぎ、ラズーンへの遥かな旅程をこなし、無事ラズーンに着けたとしても、使者のあの容赦ない物言いはラズーンへの人身御供ともとれる。万が一、ラズーンで事なく過ごし、再びセレドに向けて出発することができたとしても、帰りにはカザドが待ち受けているだろう。
(それでも)
アシャだけは。
(無事に、何とかしてセレドに帰そう)
アシャはどのような気持ちでいるかまだわからないが、旅の間に何とか頼み込んでみよう、セレドに戻ってレアナと結ばれ、国を継いでくれないか、と。
アシャほどの力があればカザドの侵略も防げる、レアナも心落ち着ける。レアナに好意は持っているようだし、障害は国を負う責任だけだが、もし、うまくユーノが戻れることができれば、自分が補佐してもいい。
それに、それこそユーノが戻らなければ、それはそれで…。
(それは、それで)
きっとセレドは、安泰だ。
胸を詰まらせる思いに少し唇を噛む。
「ほんとに約束してくれる?」
ふいにレスファートが顔を上げた。
「うん、するよ」
滲みそうになった涙を隠してユーノは笑う。
「じゃあ、この国のやり方で約束して?」
「? どうするの?」
レスファートは、いい、と尋ねてからユーノの剣を苦労して抜き放った。重さにちょっとよろめき、それをそろそろと両手で横にして捧げ持つ。
「この剣を、ぼくから取ってくれればいいの」
にこりと笑って、片足を立ててゆっくりと跪く。王族らしく、幼いながら優雅で確かな動きだった。顔を伏せ、頭の上へ剣を差し上げる。
「レスファートの名をオンミにささげます」
「?」
「早く」
「あ、うん」
きょとんとしたまま、ユーノは剣の柄を掴んだ。少年の指を傷つけないように、そっと持ち上げ、物騒なものはさっさと片付けるにかぎると鞘に戻す。
「げえっ!!」
いきなり奇妙な叫びが響いて、ユーノは振り返った。テラスに出て来たイルファが赤くなったり青くなったりしながら、わなわなと震えている。
「やあ、イルファ……?」
「きさっ、きさっ……貴様…っ」
「べぇっ」
「レ、レスファートさまっっ!」
「もう遅いよぉっ」
べろっと舌を出したレスファートがへへへ、と嬉しそうに笑いながら、イルファの側を走り抜けていく。
「忘れないでね、ユーノ!」
「あ、ああ…」
「貴様っ、今何をしたか、わかってるのかっっ!!」
入れ違いにイルファが突進してきて胸を掴み上げんばかりに詰め寄り、ユーノは思わず片足を引いた。
「何…って……えーと……約束……?」
「…っ!」
イルファが見る見る真っ赤になる。
「約束も約束、あれはなぁっ!!」
「………え?」
続いたことばにユーノはぎょっとする。
「えーえーっっっ?!」
事の重大さにようやく気づいた。
「もう遅いわいっ! しっかり受け取っておさめやがって! この…馬鹿が…っ!」
「そんな………」
イルファのしかめっ面に、ユーノは呆然と駆け込んだレスファートの後に目を泳がせた。




