3
「ん……」
ふ、と息を吐いて、ユーノは目覚めた。
(ここは……?)
目の前には豪華な飾りを施した白い天井が広がっている。
(見覚えがない)
見知らぬ場所だ。
ユーノは意識がまた薄れていったように、再びゆっくりと目を閉じた。
飛び起きて状態を知らせる愚は身に染みている。この瞬間も彼女を監視している目があるかも知れない。
次第に清明になってくる意識で、ユーノは周囲の気配を探った。
かなり広い空間だ。静かで物音はするが、遠く微か、しかも笑い声が混じるのはここが戦闘状況にないことを示している。緊迫した人間の移動する気配もない。穏やかに晴れた昼下がりを思わせる柔らかな空気、ほのかに花の香りがする。庭園か花壇があるのだろう。
殺気は感じられなかった。
(それとも………感覚が鈍っているか……)
体中が熱っぽくだるかった。右腕を中心に重い感覚が同心円に広がっていく。鈍くて緩いその動きが、ユーノをゆっくり溶かしていく。深い湖に投げ込まれたようだ。水面に波紋を残して、ゆっくり深く沈んでいく……底へ、底へ、底へ……意識の闇の水底へ。
(いけ、ない)
我に返って眠り込む意識を引き戻す。
暖かくて気持ちよくて、そのまま底まで沈みたかったが、右腕の痛みを意識して起きていようとした。呼吸に伴って今度は鮮烈な赤い痛みが響き渡る。汗が滲んで、ユーノは唇を噛んだ。
(剣に……また毒でも……塗ってあったのか)
殺されることはないはずだ。カザドは紋章をユーノが隠していると思っている。探し出す前に殺すことはないはずだ。
(半殺しにはあう、だろうな、捕まったら………っ)
急にめまいが襲ってきて、掛け物をきつく握りしめた。背後から深くへ落ち込みそうな感覚の中、弾みかける呼吸を堪えて、何があったか必死に思い出す。
男が宿屋にやってきたのだ。カザド兵を倒したのは誰かと聞かれた。自分だと答えたら、信じられないように目を見開いた。
『お前が?!』
驚かれたあたりから、頭の芯にどす黒い闇が広がり始めた。おさまっていた痛みが心臓の拍動と一緒に締めつけてくる。妙にけだるくぼんやりし始めて、足下が危うくなってくるのがわかった、だが、引き下がるわけにはいかなかった。アシャは何か事情があるのか、男の声を聞いた時から困った顔になり応対するのを避けていたようだったから。
自分しかいない。
そう理解して、けれどどんどんぼやけてくる意識は剣の柄を握り直す程度では持ち直せなかった。構えようと足を引いたつもりだったが、その足がきちんと床についたのか、それとも床を踏み抜いて自分がどこかへ落ちつつあるのかもわからなくなってきていた。
血を失い過ぎている。このままではまずい。
焦った瞬間に視界を覆ったのは、広々とした背中。
庇ってくれた。
気づいたとたんに気持ちが緩んだ。脳裏を、アシャが鋭く素早くユーノの剣を受け止めた夜が過る。大丈夫だ。そう思った時にはもう支えを失って、崩れ落ちていくのを止められなかった。
(あれから、どうなった?)
周囲の気配を確かめながら、ゆっくりと目を開く。
穏やかな静かな空気……セレド皇宮と似ている。
(どこかの……城、か?)
意識を失ったユーノを、移送手段のないアシャが遠くへ運べるわけがない。あの近くでこれほどの大きな建物となると。
(レクスファの白亜城か)
ユーノはゆっくりと顔を横向けた。薄目を開ける。
壁も天井と同じ凝った紋様が浮き彫りにされ、ところどころに縞めのうとひすいがはめ込まれている。残りの地はまばゆいほどの純白の石、白亜城の謂れを裏付ける。
側には誰もいない。何も動く気配もない。
「つ…」
ユーノはそっと体を起こした。
柔らかな光沢の布で覆われたベッド、鮮やかな刺繍に彩られた夜具に埋まっている自分に思わず苦笑する。
(セレドでもこんなに豪華な床には寝なかったのにな)
草や土やレノの上、冷えた石や時には屋根の上、などはあったが。
(……と、剣)
側の机の上に自分の剣があるのを見つけてはっとする。そろそろと手を伸ばして夜具の下に引き込んだ。
剣を側に置かれていたなら襲われる心配はないのだろうが、それでも全てが安全な場所などない。剣を引き寄せて、ようやくほっとしたとたん、とんとん、と軽く扉を打つ音がした。
「……どうぞ」
答えながら、掛け物の下で剣の柄を握りしめる。目覚めた途端の来訪というのはできすぎている。
「お加減は如何でしょうか」
長いドレスを引き、明らかに武器を持たない侍女のような女性が入ってきて、ユーノは少し気を抜いた。完全に緊張は解かないまま、相手を見つめ返すと穏やかな微笑が戻ってくる。
「ここはレクスファ国、白亜城です。お付きの方はレクスファにとって大恩ある方、ただいまはイルファと王がもてなしておりますので、どうぞ御心配なさいませんように」
「アシャが…?」
「はい」
相手はにっこりと笑って、斜め下の後方を振り返った。
「王子さま。御挨拶なさらないのですか?」
「?」
きょとんとするユーノの前に、女性の後ろからもじもじしながら5、6歳の少年が出てきて、一層ユーノは訝った。
白いブラウス、白い半ズボン。よく伸びた足には白い靴下に白い革靴。
白亜の城を守る精霊を思わせる出で立ちに、王冠を戴いているように見える眩いプラチナブロンドの髪。驚くほど澄んだアクアマリンのような薄い青の瞳を見開く。さらさらと首もとで切りそろえた髪を鳴らしてためらうように女性を見上げる。
「メーナ…」
甘えるような高い声で愛らしく眉を寄せた。
「どうぞ、王子さま」
「……あ、…うん。あ、あの」
少年は緊張した顔でユーノに向き直る。
これは公式の挨拶かと、ユーノは剣をベッドに置いたまま、ゆっくりと体を起こした。
「ぼくは、レクスファの王子、レスファートです。レクスファへようこそ……大変な旅をしていらしった、とお聞きしました」
舌足らずに口上を述べると、困ったように頬を染め、
「あの…」
「はい?」
「あの……」
不安げにメーナを見上げ、弱り切ったように口を結んで再びユーノを見つめ、どんどん赤くなりながら、メーナをまた見上げた。
「メーナ……ぼく、他のところでいいよ」
「あら、どなたですかしらね。ここじゃなきゃ嫌だって、だだをこねてらしたのは」
メーナが軽いからかい口調になる。
それを聞いたレスファートが一気に髪の生え際まで真っ赤になると、体ごとメーナにぶつけるようにドレスにしがみついた。
「だって、メーナ! こんな人だなんていわなかったじゃないか、だから、ぼく、悪い人を1人でやっつけたっていうから、もっと大きな男の人だと思って……」
ちらりと横目でユーノを見て、レスファートは居畳まれないように身を捩りメーナのドレスに顔を押し付けて呻く。
「こんな『きれいな』人だなんて、いわなかったじゃないか……」
「え……?」
呆気に取られたのはユーノだけだ。訝るふうもなく、メーナは大きく頷き眩そうな目でユーノを見ながら、
「王子さまがそうおっしゃるなら、『本当に』美しい方なんですね、この方は」
いささか不思議な言い回しで微笑んだ。
「うつく…」
今まで、『きれいな』とか『美しい』などということばを自分に向けて聞いたことなどない。
ユーノは戸惑い、やがてうろたえて、慌てて挨拶を返す。
「あ、の。レスファートさまですね。このような姿で申し訳ありません。私は旅の者で、ユーノ、と申します………ところで、レスファートさまはどうしてこちらへいらっしゃったのですか? 何か私に御用でしょうか?」
「え…あ」
レスファートはますます困った顔で口ごもる。




