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口で言うほどユーノは大丈夫、ではなかった。
アシャの前で馬に跨がっているのがぎりぎり、それでも粘って粘って、レクスファとの国境を越えたところにある小さな宿に入った時はもう限界、崩れるように動けなくなってしまった。
「………ごめん」
「ん?」
空いてる部屋は1つですがと案内され、ユーノをベッドに寝かせたアシャが床に敷物を延べていると、悔しそうな声でユーノが謝った。
「カザドを挑発したのは………私が、間違ってた」
「……ああ」
何だ、今さらそんなこと、と笑いかけたが、ユーノは生真面目な顔で見上げている。
「ごめん……あなたにまで迷惑をかけた」
旅の初日から寝込むようなことになってしまった、と苦しそうな声で呟く。
「構うな」
珍しく殊勝だな、とからかって、アシャはテーブルに置かれていた器を手にした。
「起きられるか?」
「うん」
揺らめく灯火の下、のろのろと上半身を起こすだけでユーノの顔色が青くなるのに、もう一晩ぐらいは休めてやった方がいいなと思う。
「ほら」
「た、食べられる」
「そうか?」
木の匙で掬ったスープを口元に差し出すと、ユーノはうっすらと赤くなって拒んだ。
「剣も左手で使えるし」
「ほう………両手遣いか」
剣士であってもそこまで才能のある者は珍しいぞ、と元気づけてやると、ユーノは軽く首を振った。
「いや、両手で操れるというんじゃなくて」
アシャに器を支えてもらって、ゆっくり左手で使う匙はあやうげだが問題はない。
「いつ、どちらが使えなくなるか、わからないから」
ユーノがぽつんと言い切って、アシャは思わずまじまじと見た。
(17の、娘、なんだぞ)
自分の体が「使えなくなる」ことを想定して毎日を暮らしているのは、戦場に居る兵士だけだ。そんな危機的状況の感覚が当たり前になっているのはおかしいと、ユーノは気づいていない。
(本当に、誰も、助けてやらなかったのか)
レアナの笑顔、ミアナ皇妃やセレド皇の微笑を思い返す。求めれば助けはあったんじゃないのか。すがるユーノを見殺しにするような人々だとは思えない。
けれど、現実にユーノは傷ついている。治療1つも求めていない。
悲鳴を噛み殺すことが習性になってしまうまでに、どれぐらい時間が立っているのだろう。
「ユーノ…」
一体今まで何があった。これまでどうやって生きてきた。
尋ねかけたアシャの問いを察したように、ユーノは首を傾げて話題を変えた。
「これ……変わった味がするね」
逸らされたとわかったが、話したくないという表情を突き破ることはできなかった、今はまだ。
「…少し手を加えた。止血と痛み止めの薬草が入ってる」
「そうか……それで不思議な味がするんだ」
「食べにくいか?」
「ううん……おいしい」
実は睡眠薬も入ってるがな、とこれは口にしないですすめると、ほどなく器が半分ほど空になる。
「これ……何か……他のも入ってる……?」
「なぜだ?」
「急に………眠く……なってきた気が……する」
「疲れたんだろう。横になれ」
「ん……」
アシャの手に支えられてゆっくりと横たわるユーノがじっとアシャを見返す。
「何だ?」
「ただの……旅人……にしては……おかしい、よね…?」
「え?」
「なんか……いろいろ……おかし………」
それ以上突っ込まれると面倒なことになる。引きつって応じることばを探そうとしたアシャの目の前で、ユーノの瞳がゆっくり閉じる。やがて、静かで柔らかな寝息が響きだし、ほっとした。
「……どうしたんだかな、俺は」
空の器を覗き込みながらごちる。
ユーノの腕の傷を見てから気持ちが不安定になっている。いや、そうじゃない。もし万が一ユーノがカザドに捕まってしまうようなことがあれば、どんな目に合うかわからないと気づいてからだ。
望んで背負ったものではない。実の父親の不思慮なことばに無理に背負わされたものなのだ。なのに、責務をユーノは黙って引き受けている。誰でも助けを求めずに、1人でずっと耐えている。
(いつから)
そして、いつまで?
「…」
(休ませてやりたい)
額に垂れ落ちた髪をぐしゃりと握る。
それはアシャ自身が遠い過去に願ったことでもあった。重圧の中、ただ一瞬でいい、何も考えずに眠りたい、と。
ユーノを眺め、指を緩め、髪を掻きあげた。引き戻されそうな感覚をゆっくりと押しやる。
(せめて、俺が居る間だけでも)
どこまで言うことを聞くかは疑問だが。
溜め息をつきながら器を片付けた。
テーブルに地図を広げ、改めて行程を確認する。少しでも楽な道、少しでも安全な道を選びたい。
眠るユーノを見やる。静かな呼吸に頷き、再び地図に目を落とす。
ラズーンが気紛れで皇族を呼び寄せているはずはなかった。特に視察官を派遣しての召集は、200年祭のために違いない。だが、この地図は概略も概略、おおまかな道は示されているものの、太古生物が復活している場所は記載されていないし、『運命』の動きも示されていないようだ。
(テスト、か)
動乱の世界を生き延びた優秀な『銀の王族』しか欲しくない、そういうつもりなのだろうか。ユーノはアシャが付いているから、ほぼ間違いなくラズーンに辿りつけるだろうが、他の者はそう容易くはいくまい。
(しかし、それほど余裕などないはずだが……200年祭のためならば)
世界の命運をかけた大きな企てだというのに、どうして今回に限り、『ラズーン』はこれほど偶然性に頼るような動き方をしているのか。
(落ち着かないのはこれもあるな)
いつもの200年祭の動きではない、それがアシャを警戒させている。
「う……ん……っ」
「ユーノ?」
微かな呻き声が響いて、アシャは顔を上げた。
いつの間にかユーノの額に玉のような汗が滲んでいる。眉を顰め、ほのかに口を開いて息を弾ませてうなされている。
「熱がでてきたか」
傷を確認するが、傷そのものの発熱というよりは呑ませた薬の効果が出てきたというところだろう。
椅子を枕元に持ち出して、額の汗を拭ってやる。何ごとか呟くように微かにユーノの唇が動いたが、まるで命じられたようにすぐにきつく一文字に結ばれてしまった。
その顔は昼間草原で1人体を丸めて痛みに耐えていた時のものとそっくりだ。
夢にうなされても助けを求めない仕草が痛々しく胸苦しくて、アシャはユーノの額に手を当てた。びくりと震えたユーノが、何かの力が流れ込んでくるのを感じたように眉を緩める。
『標的』として、1人で生きてきた娘。
だが、それもひょっとすると、遠い要因に『ラズーン』の存在があると言えるかもしれない。アシャが果たすべき道にあった責任だったのかもしれない。
(俺のせい、でもあるのか…?)
重い憂いを抱えて、アシャは僅かに眉を寄せた。




