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「アシャ? お見送りだ」
皇宮の方を振り返ったユーノがひょいと悪戯っぽい目で見返してきて、アシャも周囲の動きに気づいた。
「お前が挑発してくるからだろう」
「ぼやくな。旅の門出に賑やかでいい」
滑るように近寄ってきた一群は黒づくめのカザド兵、円弧を描くように押し迫ってきたかと思うといきなり鋭い切っ先が2人を襲う。驚いた馬が立ち上がって走り出すのに紛れ、アシャとユーノはそれぞれに草原を駆ける。
「おい逃がすなっ………ぎゃっ」
うろたえた叫びが上がったが、すぐに悲鳴に変わった。逃げたと見せたユーノが転身、早々に1人を倒す。
抜き放った剣を掲げて走るユーノが十分離れたと見るや否や、アシャは金の短剣を取り出した。あまり派手に立ち回りたくはなかったが、いささか数が多いこともあるし、日暮れまでにはレクスファに入りたい。
「ぎゃ」「ぐあっ」
激しい物音と同時に悲鳴が響いているのはユーノが順調に倒している証拠だろう。
アシャの周囲を取り囲むのは数人、こちらが短剣一振りで碌な武器も持っていないと一気に押し包んでくるのににやりと笑って両手を広げた。訝しく立ち止まる相手に短剣を持った腕を交差し、姿勢を低くする。
「はったりだ、かかれっ」
叫んだ男も続いた男も、そしておそらく最後の男も何が起こったのかわからなかったはずだ。
見た目には緩やかな動きに見えても、アシャの剣法は独特な様式を持つ。構えはなく、死角もない。舞うように円を描いて空を切る短剣と薙いでいく脚に引き裂かれ叩きのめされ、囲んでいた兵が声もなく地に伏し事切れる。そのまま気配の残る方向へ走るアシャは返り血一つ浴びていない。
見る者が見れば、それが何を示すのか、アシャの本性が何なのか、瞬時に悟ってただちに撤収しただろうが、生憎それほどよく知られているものでもない。
(知った時には命がないからな)
冷ややかに笑ってアシャは次々と敵を倒す。悲鳴と怒号で満ちた草原はあっという間に静けさに覆われていく、何が何だかわからぬままに屠られて、敵も災難だっただろう。
「ぐ、あっ」
目の前で間抜けにも背中を晒して逃げようとした最後の相手を蹴り倒してから身を起こし、アシャは周囲を見渡した。呼吸が乱れるほどの戦闘ではない、汗ばむことさえなかったが。
「ユーノ?」
気配があるのに声がない。
(まさか)
やられたのか。
不安になって草を掻き分けていくと、濃厚な血の香りの中で慌ただしい呼吸が響いている。
「ユーノ!」「……っん」
数人の兵が倒れている空き地で、ユーノが右腕を抱えて転がっていた。
「どうした!」
(それほどの手練はいなかったぞ)
慌てて駆け寄ってみれば、シャツを濡らした血に染まりながら唇を噛んで身を縮こまらせている。かなりの激痛なのだろう、汗に濡れた顔が真っ青だ。
「何をしている! どうして呼ばない!」
痛みに声にならないのかと思ったが、抱き起こすとぽかりと目を開け、ほのかに苦笑した。
「ごめ……まずった……」
「こっちに手練がいたのか」
「ちが……ちょっと古傷、を……ぁっ」
腕を掴んだ途端に声を上げたから、毒剣でも使われたのかとシャツを切り裂いて傷を確かめようとして茫然とした。
「なんだ……これは……」
ニの腕の中ほどが斬られたのは今しがたのことだろうが、それ以外にも腕は大小様々な切り傷で埋まっている。その中の幾つかはようやく塞がったばかりと見える生々しいもの、しかも今の傷がその一部を抉り直すような状態でささくれ立っている。
「お前……いつこんな傷……」
「なん……でもない……」
真白な顔で歯を食いしばっていたユーノが微かに首を振った。慌てたようにシャツをかき寄せ、アシャの手から腕を取り戻す。
「なんでもない、じゃないだろうが! いつからこんな」
(さっきの話はここ最近のものではないのか?)
唐突に降り落ちた理解に動きを止めると、ユーノはぐい、とアシャの体を押し退けた。ふらつきながら立ち上がって、震える口笛を吹き、馬を呼び戻す。
「ユーノ!」
駆け戻ってきた馬の荷物から布を取り出そうとするユーノに、アシャは急いで側に寄った。
「貸せ」
「いい……」
「いいから、貸せ!」
(ずっと、こんなことをしていたのか)
体の芯が冷えてぞくぞくした。指先が冷たくなっている。
(こんなに傷が残るような状態で、その傷も回復しないまま1人で戦っていたのか)
傷を確かめ、水で洗い、布を押し当て止血する。レクスファに置いてきた医療具があればと密かに舌打ちする。
(それでなくとも、もっと早く呼んでくれれば)
考えた瞬間、動けなくなったのに声を出さなかった理由がわかった。
そんなことをしても誰も助けになど来ないからだ。むしろ弱っていると敵に知れて、屠られるのが早まるからだ。生き延びるためには、助けを求めるのを拒むしかない。
(それは、そうだが)
納得しながらも呆然とする。
「……あり…がと…」
腕に布を巻きつけて固定すると、軽く喘ぎながらユーノが嬉しそうに微笑んだ。
「1人でするより……手早いな」
掠れた声に胸の奥を冷たい手で握りしめられたような気がした。
(では、こいつは手当てさえも誰かに頼むことはなかったのか)
汗に濡れた額を拭ったユーノがよろめくように馬に乗ろうとして、思わず押し止める。
「待て」
「なに……早く、行かなくちゃ……今日中には、レクスファに入る、んだろ」
「俺の前に乗れ。今日は国境近くで宿をとる」
アシャの答えにユーノが驚いた顔になる。
「どうして……」
「どうして、じゃない。手当てが先だ」
「だい…じょうぶだ、いつものこと、だし」
いつものこと、じゃないだろう。
怒鳴りかけたのをアシャはかろうじて踏み止まる。
自分でもどうしてここまで怒っているのかわからない。ただ手当てもろくにしないで旅を進めようとするユーノが、腹立たしくてたまらない。
「旅程を遅らせたいのか?」
冷ややかに唸って、ユーノを睨み付けた。
「でも」
「ここで体調を崩したら、ラズーンどころじゃなくなるぞ?」
旅に関しては俺の方が経験豊かなはずだがな。
そう付け加えると、さすがにまずいと思ったのだろう、小さな声でわかった、とユーノは同意した。




