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「っ、…」
ぞくっ、とユーノが脚から震えた。重ね直したアシャの唇がユーノの唇から僅かにずれて、輪郭を辿るように舌先を触れたからだ。
「あっ…」
どこか悲鳴じみた呻きを漏らして、ユーノが崩れかけた体を堪えたのがわかった。
きっと初めてだと思っているんだろう。
「は…」
眉を寄せて拒もうとする、その切なげな顔をゆっくり眺める。
もし誰かがこの唇にもう触れていたとしても。
(それより強く)
俺を刻む。
自分が猛った顔をしている自覚はある。
「、や…」
微かな拒否が口から溢れかけたのをあっさり塞いだ。んっ、と口の中で唸る声が追い詰められて苦しそうだ。
(甘い)
こんな唇を知っていただろうか?
(柔らかい)
ユーノの体で柔らかなところ、けれどもっと柔らかなところに侵入していく奴がいる。
「んっん」
逃げかけたのを頭を押さえた。驚いたように見開いた瞳が泣きそうだ。瞳に視線を合わせ、目を細めてにっこり笑いかけてやる。今までならばそのまま溶ける、アシャの強い望みに応えて、自らを投げ出す女がほとんどだが。
ぎらりとした殺気が潤んだ瞳の向こうに広がって、唐突にがしっと胸元を握られた。
(鮮やかだな)
もっと深くまで侵したならば、この瞳はアシャを永久に忘れないでいてくれるだろうか?
「ん、んーっっ」
唸りながらアシャの抱擁から逃れようとするユーノを、もう少しと欲張って舌を突き出そうとした瞬間、
びしっ!
「!」
鋭い音が響いた。
(おしまい、か)
やれやれと思いつつ、唇を離し、見る見る真っ赤になったユーノが罵倒しようとしたのを強く胸に抱え込む。
「ああっ!」
次の瞬間、鳥籠は弾けた。
まるでとても不愉快なものを口にした獣のように、どこもかしこも一気に蔦を弾けさせ、ユーノを吐き出すように空中で分解する。
「きゃああっ!」
「いやあっ!」
衝撃が伝わったのか、周囲の鳥籠の幾つかが枝からまた落ち、扉を弾けさせ、『しゃべり鳥』(ライノ)達の歓喜とも恐怖ともつかぬ悲鳴が響き渡った。
「アシャぁあっっっ!!!」
転がり落ちてきたユーノはどさりと見事に腕の中にはまってくれたし、そのまま地面に転がったアシャに馬乗り状態でのしかかってくれるという、願ってもない状況だったのだが。
「何をするっ!」
突きつけられたのは抜き放たれた剣。切っ先は喉。
「何をって……キス、しただけだが」
びくっ、とユーノが大きく震えた。
「違うだろ!」
「違わないだろう」
アシャは地面に寝転がって、自分の上で騒ぐユーノを楽しく見上げる。紅潮した頬、乱れた髪に縁取られた顔は珍しく動揺していて、しかも唇がまだほんのり濡れていて。
「何ならもう一度証明しても」
「しなくていい!」
激怒しているユーノは伸ばした両手に応じようとせずに、慌ただしくアシャの上からも降りてしまう。
(やれやれ)
まあその方が、ぼちぼちいろいろとよかったのだが。
溜め息まじりに、アシャは起き上がって胡座を組んだ。
「何が不満だ?」
「何がって!」
「キスして助けろと言われたから、キスしたんだぞ?」
「う」
「礼を言われても、罵倒される筋合いはないと思うが」
「う、う」
「なーんだ!」
ふいにあっけらかんとした声が響いて、アシャはライノを振り返った。
てっきりユーノと同等、それ以上に激怒しているかと思っていた相手は、なぜか異様に明るい顔で大きく頷いている。
「そういうことだったの!」
「は?」
「あなた、男の方がよかったのね、アシャ!」
「え?」
ユーノががちりと凍りついた。
「だって。鳥籠が壊れるほどその子のことを」
ライノがこれみよがしに肩を竦めて横目で崩壊した鳥籠を見やる。
「それならあたし達に冷たいのもわかるわ!」
「おい」
「そうね!」
「そうだったのね!」
項垂れていた周囲の『しゃべり鳥』(ライノ)達が一気に顔を上げた。
「なぁんだ!」
「アシャはそういう趣味だったの!」
「女に興味はなかったの!」
「……おい」
『しゃべり鳥』(ライノ)がアシャのことを知っているのなら、数々流れた美姫との噂を知らぬわけがない。様々な王宮で、華麗な舞踏会で、繰り返された宴の席で女性達に取り囲まれたのを聞いていないわけがない。
「ア…シャ…?」
ひきつったユーノに、思わず強く否定する。
「違うぞ」
びく、とユーノが顔を強張らせて、なおも付け加えた。
「そんなつもりじゃない」
ふわ、とユーノの瞳が驚いたように見開かれる。
「いいえ、そうなのよ、きっと! ああなあんだ、悩んじゃった損しちゃった!」
ライノは朗らかに笑った。
「アシャは男が好きなのね! だからあたし達が魅力的に見えないのね!」
「だって、きれいでしょ!」
「あたしはきれいでしょ!」
「男が無視するわけはないわ!」
「きれいでしょ!」
「ねえきれいでしょ!」
「他の誰よりきれいなんだもの!」
周囲の『しゃべり鳥』(ライノ)は、もうアシャ達などどこにも居ないように、明後日の方向を向いて口々に声を高めていく。転がっている『しゃべり鳥』(ライノ)はそのまま鳥籠の中に踞り、開いた扉もあるというのに目も向けず、むしろ背中を向けて籠にしがみつき、如何にも本意ではなく捕まっているのだと言いたげに外へ向かって声を放つ。
「ねえ見て!」
「きれいでしょ!」
「誰よりきれいでしょ!」
「ええ、よぉくわかったわ!」
ライノはすっきり爽やかな、けれどどこか意地悪い微笑で言い放った。
「アシャは男好きなのよ! 女じゃなければ誰でもよかったのよ、男であればよかったの!」
「おいおい」
なんだその言い草は。
「そうよ、アシャは男が好きなのよ!」
うんざりしているアシャを放って、ライノは声高に叫びつつ、どんどん木立の向こうへ消えていく。
「あいつ……言いふらして回る気か…?」
溜め息まじりに立ち上がり、眉をしかめる。
まあそれはそれで、余計な誤解をされなくて済むが。
「行こう、もう彼女らは俺達に興味がない……ユーノ?」
「………ぷ……くく…くくっ」
突然、ユーノが吹き出して呆気にとられた。




