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「ほぉ」
固まったユーノを見下ろし、アシャは微笑する。さっきまでの軽蔑ではない、跳ねるように熱をもって立ち上がってくる感情に、思わぬ褒美を得られるのだと理解した。
「なるほど」
「なるほど、って……アシャ」
呆然としていたユーノがはっとしたように瞬きする。
「そんなの、」
慌てた口調で言いかけ、途中で何に気づいたのか薄く赤くなって、視線を泳がせる。
「そんなの、ボク」
「どうなの、視察官」
ライノは腕を組み、嘲笑うように声を張り上げた。
まともに呼称されてびくりとしたが、ユーノはそれには反応しない。
(やっぱり、聞かされているのか)
また薄寒い風が胸の底に吹き溜まる。
「それぐらいの代償は払いなさいな」
「男だけどね」
「いい気味」
「みっともない、そんな子に」
「ちゃんと唇にキスよ」
「頬や額じゃごまかされないわ」
思わぬアシャの攻撃に怯んでいた『しゃべり鳥』(ライノ)達が、地面に落ちて怯えている仲間のことを忘れたように、くすくす笑い出した。
「欲しいなら貪ってもいいけど?」
「あたし達が見てるけどね」
「ずっと見ててあげるわ全部」
「あ…しゃ…」
ユーノは不安そうな目で嗤う『しゃべり鳥』(ライノ)達を見回す。
「どう、しよう」
泣きそうな顔、さっきまで命の危険に晒されていた時の方がよほどきつかったはずなのに、どうしてキス1つでこれほどまでに不安がるのか。
(きっと)
好きな男が居るからだ。
アシャは軽く目を伏せた。
自分の瞳の中に浮かんだだろう、邪な喜びを読み取られたくなかった。
(好きな男が居て、そいつに操を立てようとも)
今ここに居て、ユーノの唇を味わい、彼女を助けられる立場に居るのはアシャだけだ。
体の内側が冷え冷えして寒い。
熱が欲しい。
直接に触れ合って得られる熱、知っているだけに、すぐに満たされるそれを想った。
「キスすればいいんだな?」
「アシャ!」
「ええそうよ、キスして扉を開けなさい」
それならあたし達も今回の無体は見逃してもいい。
いつの間にか地面に転がった『しゃべり鳥』(ライノ)達までもが、鳥籠の影からアシャがどうするのか興味津々と言った顔で覗いている。
「でも、だって」
「ということだ、ユーノ」
「何がっ」
「諦めろ」
「でも、アシャ!」
「永久にそこに居るか?」
彼女らと一緒に?
「う」
「一瞬のことだ」
アシャはゆっくり鳥籠に近寄りながら説得する。
「怖いのか?」
「こ、怖くなんかないっ」
「上等」
「うっ」
売りことばに買いことばでユーノが受けて引き攣ったのに微笑を深めた。
降ろされた鳥籠に近寄る。
「…おい」
近寄って改めて、ユーノの顔と言わず手の甲と言わず、見えているほんのわずかな皮膚に無数の傷がついているのに気がついた。
「何をされた…?」
声が一気に冷えるのがわかった。
問いかけは形だけだ。さっき鳥籠の中で吊り上げられていたのを見た。四肢を縛られ、棘だらけの籠に押し付けられているのも。まだ手足に絡んでいる金髪や、籠の中に散っている蔦や葉、引き裂かれたり穴が開いたりしている衣服、けれど何より胸を締めつけたのは、見上げてきたユーノの瞳が切なげに潤んでいたからで。
ごく、と自分が呑み込んだ唾に、沸き起こる妖しい感覚を堪えようとしているのを自覚する。
「え…?」
意味がわからないように瞬きする黒い瞳の中に浮かぶのは信頼、この間までは決して向けられることのなかった確かな訴えはアシャの背筋を甘く這い上がる。
「ひどい目に合ったんだろう」
自分を制するために早口になった。
「大丈夫か? 傷まないか?」
きっとうんとひどい目に合ったから、これほど頼りなげに見えて、アシャを求めているように感じるのだ。
けれどきっとユーノのそれは、いわゆる危機に追い詰められた激情で。
一時のもので。
制御しようと構築する理論を突き崩すように、小さく震えながらユーノが伸ばしてくる手を受け止める。
「う、うん。大丈夫、けど気をつけて、その棘、触ると痺れる」
ひどくか細く感じる掌。
「どうした、珍しく素直だな」
ユーノの声が甘くて柔らかい。
なぜ急にこんなに優しい口調になった?
なぜ急にこれほど心を委ねてくる?
棘のせいだよ、そう言いつつ震えている手を握ると、ひきつったように必死に笑いかけてくる顔に、大きな何かが切れた。
ああ、だめだ。
もうだめだ。
「生きるためだ」
微笑む自分の顔に魔性は透けていないか。
「何なら目を閉じろ」
好きな男を思い浮かべればいい。
「う」
「仕方ないだろう?」
囁きながら、手を引き寄せ、籠ごしにユーノを抱きかかえる。
「あ…の…っ」
「口を塞げ。しゃべってると舌を噛むぞ」
揺れる鳥籠を言い訳にしたが、開かれていると中まで侵してしまいそうになるからで。
「でも、棘、刺さってる、アシャの腕まで傷つ…!」
びく、とユーノが震えて目を見開いた。両腕で隙間を押し広げるアシャを呆然とみやる。
「痛い…だろ?」
「わからん」
突き刺さる棘も甘美なだけ、蕩け始めた脳には届かない。未練がましくユーノの手足に絡みついている金髪は、彼女の感覚を盗みとろうとしているようだ。
(奪えるなら奪え)
喜びをどれほど掠め取っていこうと、それを上回るものを与えて見せる。
「あ…しゃ…」
背中を撫でる。引き締まった筋肉をなだめるように指先で。
「う…」
そのまま背筋をたどって首筋へ、しつこく残る金髪の下へ指先を潜り込ませると、軽く首が絞まったのか、は、と小さく息を吐いてユーノが仰け反る。揺れた瞳が苦しげに細められる、それがまるで腕の中で極めていくような顔にも見えて。
「くる…し…」
俺のものだ、その顔は。
ひやりとした残酷な喜び、自分の酷薄さに苦笑する。
「すまん」
そっと謝りながら時間をかけて髪を解き落とす。抱き込んだ体から伝わってくる心臓の音が次第に速度を上げていくのに満足する。空気を求めるように唇が少し開いたのを、封じ込めるように覆い被さった。
「ん…っ」
ざわっ、と周囲の気配が凍りつく。
(小さな唇だな)
感触を確かめる。
(震えてる)
いつかの導師の所では、少年のようにただただ重ねて所有したかっただけ、けれど今ははっきりと、ユーノに自分を刻むつもりで、ユーノの熱を奪うつもりでキスを進める。
閉じた口の奥でかたかたと歯が鳴っている。押し開くように重ねるアシャの唇に、必死に服を掴んでいる手も、抱き込んでいる体も、今はまだ恐怖だけしかないのだろうか、竦んで冷え込んで揺れている。
(熱を寄越せ)
そんなふうに守ってないで。