3
「レス!」
強い声で呼ばわりながら、ユーノは悲鳴が聞こえた方向にヒストを進める。
「レス! どこにいる!」
木立は次第に厚みと幅を増している。さっきまでまっすぐ見通せた地平も今は切れ切れだ。
「レス! ……くそっ」
ユーノは舌打ちした。
穏やかな場所だから、平和な鳥の声しか聞こえないから、つい安心してしまっていた。
けれど動乱の時期を迎えた世界に無防備に安堵できるはずはなかったのだ。
背後を追ってきていたはずのアシャもユーノを見失ったのか、響くのは自分がレスファートを呼ぶ声のみ、いや。
くすくすくす……と、面白くてたまらないと言いたげな笑い声が背中から響いてきて、ユーノは急いで振り返った。
あまり友好的ではない、嘲笑うような、けれど軽やかな声、なのに、後には誰もいない。
「レス?」
問いかけても何も動く様子はない、だが、誰かが居る、何者かが息を詰めてユーノを見守っているのがわかる。
(誰だ? カザドか? それとも)
『運命』
思いついた名前にぞっとして、竦みかけた体を必死に開く。
剣の訓練はまだ十分ではない。手加減してくれているアシャと打ち合うところまでもいっていない。
隙はかなりなくしたはずだ、けれど感覚のずれはなかなか直せない。
「レス!」
用心深くヒストを歩ませながら、ユーノはレスファートを呼んだ。
「どこにいる! 何があった?!」
再び真後ろでざざっと木立が揺れた。瞬時に右手に長剣を引き抜き、木立へ差し向ける。
「誰だ!」
くすくす、と再び明るい楽しげな笑いが起こった。
険しい顔で見つめるユーノの目に、ぱさりと軽い音がして、木立の中から輝くばかりにまばゆい一房の髪が、さらさらと波打って流れ落ちるのが映った。
(え?)
ゆらゆら揺らめいた髪は見事な直毛、艶やかに日差しを跳ねているところはまさに黄金の滝。
息を呑むユーノの前でざわざわと樹々が揺れて、髪が次第に長さを増していく。
ちょうど、そのような髪を持った誰かが木の上にいて、ユーノを見ようと枝の下から首を延ばしてきてでもいるように、金色の髪は揺れ動いて草の上に広がり、やがて唐突に止まった。
「!」
次の瞬間、ユーノは、木立の間に、この世のものとも思えぬすばらしい美女の顔を見つけていた。
整った卵形の輪郭に特別な果物を思わせる淡いピンク色の頬、ほのかに開いた紅の唇、つんと尖った鼻が見事な配置でおさまっている。愛らしく見開かれた無邪気そうな青い瞳、思わず見惚れて両手を差し伸べ、抱き寄せることをためらう男などいないだろう。
ただ惜しいかな、その瞳は微妙に冷ややかで傲慢な色をたたえていて、それが完璧から僅かに彼女を遠ざけていた。
ぞくり、と妙なものがユーノの腹の底に動いた。
「あなたが……ユーノ……?」
紅の唇がゆっくり開いて、甘い声が問いかけてくる。
木立の緑の中、静かで穏やかな風景、なのにまるで誰かが無理に彼女を枝の上に押し込めたように、相手は細くて白い首だけを突き出してこちらを振り向き、逆さまのまま微笑んだ。
「そう、だけど」
「そう…」
相手は唇を歪めた。
片頬だけを引き攣らせ、嘲笑うように目を細め、世の中をねじ曲げてしか見ないような乾いた笑みをたたえる。
見る者を失望させる笑みだった。
「なあんだ」
低い掠れた声が響いた。
「あの子があたしよりきれいだ、なんて言うから」
くすくす。
「どんな者かと思えば」
そのままことばを続けず、相手は奇妙な姿勢のまま笑い続けている。
「レスを知ってるのか」
くすくす。
「知ってるんだな?」
くすくすくす。
馬に乗ったままではあそこまで突っ込めない、そう考えてヒストから降りる。剣は構えたままだ。周囲を伺いながらじりじりと近寄っていく。
「レスはどうした」
枝の上に居るということはそこに始めから登っていたということだ。なのに気配はしなかった。笑い声がしなければ、ユーノも見過ごしていたかもしれない。
となれば、この美しい女性もただの人間ではないのだろう。
「応えろ」
「え……あの子? あの子?」
相手はまるで人形のようにかくかくと首を左右にねじ曲げて笑った。どう見ても人間、しかも微笑む頬の柔らかな産毛が日に光っているのが見えるほどなのに、動きはまるで死体を突く鳥を思わせてぞくぞくする。
「おい」
「…だって、あたしよりあなたの方がきれいだなんて言うんだもの」
ぴたり。
ふいに相手は動きを止めた。
まっすぐにこちらを見やってくる目、逆さになっていた顔がゆっくり持ち上げられて、再び枝の中へ入りそうだ。なのになかなか体が見えてこない。
「……」
その奇妙さに、ざわざわしたものがユーノの背中を這い登る。まるで重さがないようだ。ひどく長い首がのけぞるように曲げられて、ふいに滑らかな動きで枝から上半身が抜き出された。
「あ」
落ちる。
小さく声を上げるユーノの目の前で、枝へ顔を突っ込むように体を仰け反らせたかと思うと、いきなり黄金の髪をまきつかせながら白くて長い脚が零れてきた。そのままふわりと体が持ち上がり、まるで空気に浮かぶ羽毛のようにくるりくるりと白い衣を翻らせながら落ちてきて、足音一つたてずに草の上に降り立つ。
「ふぅん…」
相手は腰に手をあてて、ユーノをゆっくり眺めた。
光を帯びている滑らかな肌、体の陰りも透けそうな薄衣一枚のドレス姿、風に押されたようにふいっと側まで近寄られて、殺気のなさに攻撃の機会を失った。
「なぁに、この荒れた顔」
「…っ」
キスされるのかと思うぐらいに近寄られて、構えた剣の内側に入り込まれる。とっさに腕を寄せて拒もうとするのも遅く、そのまま顔を寄せられ、冷ややかに嘲られて凍りついた。
「目だって血走って濁ってるし、おおいやだ、血なまぐさい剣なんか得意気に」
「、」
とんでもなく痛いところを突かれた気がして思わず後じさりした、その空間にまた迫られる。
「あの子の目は節穴ね。まあ男にしてはきれいな方なんだろうけど、それでもやっぱり私の方がうんときれい」
「く、」
伸ばされたと知覚もできないうちに、汗に塗れて跳ねた髪を撫でられた。耳に触れられ、首筋を探られ、くすくす笑いながら顎を指先で押し上げられる。
「!」
ぱんっ。
「……あら」
その指先から得体の知れないものに侵されるように感じて、ユーノは必死に相手の手を払った。剣もある、殴る事もできる、けれど相手のなよなよとした気配が敵ではないと知らせてくるから攻撃に移れない。
それでも、肩から腰、足首までも流れ落ちる自分の金色の髪を撫でながら、上機嫌に笑う相手を睨みつけ、冷たい声で問い正した。
「レスをどこへやった」
「剣をしまって」
くすり、と相手は無邪気そうに微笑んだ。
「怖いわ」
「ちっ」
舌打ちをして剣をおさめる。
いずれにしてもレスが人質になっているのなら、抵抗するのは逆効果だ。
「レスを返せ」
「どうしようかしら………あら……冗談よ」
ユーノが鞘を握りしめたのに、相手はまた楽しそうに軽く笑った。
「あの子は向こうよ、あたし達、ライノのところ」
「ライノ?」
どこかで聞いたことがある、そう眉を寄せる。
「だって、あたしとあなたみたいなのを比べて、あなたの方がきれいだなんて言い張ったから、当然のお仕置きをしなくては」
「お仕置き?」
泣き叫ぶレスファートを思い浮かべて胸が絞られる。
「連れていってくれ」
形は懇願だが、目に殺気を込めた。
「傷つけてたら、ただじゃおかない」
美女は笑いやんで、少し目を細めた。
「……いいわよ……キスしてくれたら、ね?」




