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(え…っ?)
ユーノは瞬いた。
アシャの声だ。
思った瞬間、ふいに視界が明るく開けた気がした。周囲を見回し、今踏み出そうとした右側の空間、そこにべったりとドヌーが固まり張り付いていると気づいて,血の気が引く。
(な、にっ)
とっさに踏みとどまって姿勢を戻し、アシャの言う通り左を見ると、確かに活路がある。うろたえてもう一度右を見やり、明らかにドヌーもいない、十分な足場もある左に全く意識がいかなかったのを確認する。
(さっきは違った)
打ちかかってきたクノーラスの剣を受け止める。
(さっきは右側にしか行けない、と感じた)
けれど、頭を働かせてみれば、右側にドヌーが集まっていることをついさっきまでは意識していたはずなのだ。
なのに、なぜ。
「っ」
(剣の罠)
辿り着いた結論に呆然とした。
視界を遮られたわけではないのに見えなかった。追い詰められたわけではないのに、わざわざ不利な場所を選ぼうとした。技の未熟からではなく、相手の間断ない攻撃によるのでもなく、自分自身で窮地に飛び込もうとしていた。
(そ、んな)
かろうじてクノーラスの攻撃をしのいだものの、無意識に竦んだユーノの腕に、どろりと上から流れ落ちてきたドヌーが絡み付く。
「くっ!」
生温かい粘液の感触、まるで皮膚を溶かして浸食するようなぬらつきに悲鳴を上げかけて噛み殺し、クノーラスを弾いた剣を閃かせる。青黒い液体をたたえ半透明に煙る球体、その中になお黒々と死を予告する『目』を瞬時に見極め、気合いもろとも一気に切り裂く。
ビシャ……っ!
吹っ飛んだドヌーが空中で2つに分かれ、中身を撒き散らしながら別方向の壁に叩きつけられ、ぬらぬらとした流れと化して壁を滑り落ちていくのにぞくりと震えた。
今のドヌーだって、気配は既に感じていた。もっと早く避けようと思えば避けられたはずなのに、なぜか脚が動かなかった。
(これが、罠……?)
攻撃は止まない。すぐに次のドヌーが迫ってくる。
(わかっていたのに、なぜ逃げなかった?)
今は誰も背後に庇っていない。視界の端で足下にいくらでも動ける空間があったのを確認する。
(なぜ落ちてくるまで待っていた?)
思わず上を振り仰ぐ、その瞬間に、馬鹿な、と自分を叱咤した。
今お前はクノーラスと対峙しているんだぞ。
自分の内側の叫びに応じて必死に顔を戻し、かろうじて突っ込んできたクノーラスを視認する。
(まに、あう、か?)
「っ、く!」
するする首めがけて伸ばされた剣先を髪の毛一筋で避け、服を切り裂かれる。
(私は、何を、しているっ)
死にたい、のか。
(罠)(罠)(罠)
呼吸を乱してクノーラスと対峙しながら、頭の中でことばがくるくる巡っていく。
(敵に自分を晒してしまう罠)
「く、そおっ!」
(どうする?)
感情も見せぬままに剣を振り上げるクノーラスの動きを、必死に息を整えながら注視する。
(どうする?)
冷たい汗が額から流れて首を伝い、背中の中央を凍てつかせながら落ちていく。構える気配もないまま、操られるようにあやふやに、けれど打ち込む隙をますます消して接近するクノーラス、竦みかける腕で剣を構え直す。
(どうする……どうしたらいい?)
自分の使う剣法そのものに、いや周囲を知覚する認識そのものに、殺してくれと望むように植えつけられた隙がある。
(そんなものを、どうしたら、なくせる…っ)
ゆら、と視界が揺れる。
何を信じればいいのかわからない。
何が正しいのかわからない。
自分の動きも感覚も、全てが罠へ飛び込む道筋の一つでしかないかもしれない。
(どう、したら…っ)
「アシャ!」
「アオク!」
「っう」
ふいに下の方で鋭い声が呼び交わすのが聞こえた。
(あ、しゃ)
アシャが居る。
ちらっと下を伺うと、次々と襲ってくるドヌーを切り捨てながら、アシャとアオクが階段の下へ近づいてきてくれている。
(一人じゃない)
「は、ぁ…っ」
生き物の腐ったようなむかつく臭いが城中に満ちつつあった。込み上げる吐き気を必死に押さえつけ、突っ込んで来たクノーラスの剣をかろうじて受ける。
前より受け止めにくくなっている。相手の力量が増しているのか、それともユーノが罠に落ち込んでいっているのか。
(それでも)
アシャが居る。
「は………ふ…っ」
ゆっくり呼吸した。
(思い、出せ)
クノーラスがまた剣を突き入れてくる。
(思い出せ)
アシャに教えてもらったことを、寸分違わず今ここで。
呼吸法、手足の動きへの集中、筋肉の動きを外部の目で確認し、どんな感覚があるかを確かめて、内側の知覚と動きを繋げていく。
跳ね返す、次の一撃も。
(思い出せ)
自分の動きと相手の動きを重ね合わせる。自分が相手になったように、動きから相手の内側の感覚を感じ取り、認識と意志を読み取り、次の動きを予測する。
(隙だ!)
ふいにひやりとした。
次はこちらへ踏み込む、だからこちらはこう避ける、そう組み込まれたやりとりに乗りかけた瞬間、右側に寒さを感じて目を走らせた。
(違う!)
右側ががら空きだ、まるでそこを狙って下さいと言わんばかりに。
「く、うっ!」
今までなら気づかなかっただろう『隙』が、死への深い淵になって口を開けているのが見える。
(違う……違う…っ)
焦りが体を強張らせていく。自分の反応一つ一つが、『運命』相手には隙だらけなのがわかり始める。
(こんなに……こんなに私は無防備、だったのか)
怪我をして当然、生き延びられていたのが奇跡、そうわかってくればくるほど、恐怖がじわじわと滲んでくる。
クノーラスの剣が、まるでその隙を知っているかのように、またそれさえも、闇の淵を作るようにユーノに迫る。
「っっっ!」
声がたてられなかった。
この一歩は正しいのか?
この一撃は正しいのか?
この構えは意味があるのか?
混乱していく頭からどんどん意識が零れ落ちて白くなる。
何もかもが無駄のような、何もかもが虚ろなような、生きていくことさえ意味がないような。
けれど意識の片端で、剣の鳴る音、汗が飛び散る光、熱く滾って濡れていく体を感じ取り、落ち込む空虚に抵抗する。
夜空の彼方を見上げていくような、果てしなく底知れない、その闇の気配。
ほんの少し気を抜けば,ほんの僅か緊張が途切れれば、闇に潜んだその空虚が巨大な口を開けて、ユーノを引きずり込んでいくだろう。
(こわい……っ!)
膝が砕ける。力が抜ける。気力が萎えて緊張が解けそうになる。
初めて感じた底の見えない不安と恐怖。
(もた、ない………!)
体が冷えて歯の根が合わない。
クノーラスが目を細める。自信一杯に振り上げられる剣を避けられる気も受け止めきれる気もしない。
(だめだ……っ)
潤んで滲む視界に歯を食いしばって目を閉じる。剣が重くて持ち上げられない。
ここまで、なのか。
(く、そおおっ)




