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(あれはやっぱり)
おかしなやつだって思われたんだろうな。
ユーノは溜め息をつきながら、意識を手に戻す。
(普通そんなことはできない、もんな)
「よし、そのまま左の動きをつけて」
見守っていたアシャが満足そうにあっさり命じた。
「魔物ーっ!」
「…何とでも言え。教えろと言ったのはそっちだからな」
複雑な表情で見返したアシャが苦笑する。
「ちっ」
(ったく、ほんとに容赦ないんだから)
左手と左足をゆっくりあげる。膝を突き上げ、そのまま、下腿だけ前方へゆっくり爪先まで伸ばしていく。
「ほら! 意識しろ、爪先に届いてないぞ!」
「くっ」
体が震える。
アシャは別に難しい動きを要求していない。剣を持たせてくれたのも、ようやく今朝からで、それでも体の各所の緊張と弛緩を細かな筋肉の動きを常に意識しながら繰り返すだけの訓練なのに、未だにアシャが要求する全ての動きをすることができない。
(くそお!)
ユーノは奥歯を噛みしめた。
見本だ、そう言ってみせてくれたアシャの動きは滑らかそのものだった。
剣を手にしているのではなくて、まるで美しい布か扇をかざして舞っているような動き、翻る腕の下を潜る姿は微かに伏せた目元が淡く紅潮していて、あでやかな美姫を描いた一幅の絵巻物を見せられている気がした。体のいろんな部分がどこもずれなくためらいなく、連動し繋がり動いていく。日差しの強さに薄く汗を浮かべた肌、それでも雫が滴ることはなくて、緩やかに開きまた閉じていく体の内側に吸い込まれてでもいくように消えていく。
だが。
その動きのどこへ切り込むか、そう考えた瞬間に、その舞いが髪の毛一筋の隙もないのが見て取れた。
空いたと思った間隙は次の一瞬で振り下ろされた剣に断たれる。踏み込めると感じた場所に脚を降ろしたが最後、くるまれるように攻撃されて屠られるのは目に見えている。気づくのは、全てが罠のように巧みに攻撃を誘う動きだということ、しかもそれは計算ずくで、吸い込まれるように剣を延ばせば、腕ごと剣を落とされるのは明白、ならばと防御に徹しようとすれば、どの動きを封じれば安全なのか、どの動きが致命的なのかがわからない。
いやむしろ、どの動きも致命的、そう気づいたときには、命は遠く死の女神に持ち去られているだろう。
ぞくりとした。
これほど完成された動きは見たことがない。これほど見事な攻防一体となった技は知らない。
(学びたい)
強烈な衝動だった。
(あの剣を身につけたい)
生き延びるために。守るために。
(レスファートを、イルファを)
止まるわけにはいかないのだ。生き抜いて、なんとか『ラズーン』まで逃げのびて。
(アシャ)
彼をレアナの元へちゃんと戻さなくてはならない。
何があっても、だ。
(姉さまが泣くのは見たくない)
アシャはユーノの正面に腕を組んで立っている。ほっそりした肢体が無理なく自然の風景に溶け込んでいる。
ふと、いつアシャの見納めになるかわからないのだと、そんな切なさがユーノの胸に湧き起こる。
(それはいつ、だろう)
風に未来が見えれば、とユーノは願った。
(一種の天才だな)
アシャは教えた動きを未熟ながら、ゆっくりと確実にこなしていこうとするユーノを見つめながら考えた。
常人なら20日はかかる。アシャのような金のオーラの持ち主である視察官でも、ここまでくるのに5日はかかる課程を、ユーノはほぼ3日で覚え始めている。
『あちこち怪我したから』
なぜこんなに自分の体をうまく使えるように訓練されているのだろう。ゼランが? まさかな。
不審がったアシャにユーノはあっさり言い放った。
『あちこち、怪我して、それでも普通にしてなくちゃならなかったから、他の部分でどうやったら怪我してないように振る舞えるか、いろいろやってみてたんだよ。だから、こっちを動かさずにそっちだけ動かす、とかって結構得意なんだ』
馬鹿やろう。
一瞬そう詰りたくなった。
胸倉を掴んで引き寄せ抱きしめて、そんなことを得意がるもんじゃない、と。
怪我をしたのに訴えられない、休むことも許されずいつもの仕事をこなさなくちゃいけない、だから自分の体を限界まで使う術を身につけた、そう言っているのと同じなのに、気づいてないのか。
けれど、それがあったからこそ、こんなに短期間で視察官の剣を飲み込むことができる体になっている。
そうして生き抜いてきたからこそ、アシャと出会うまで生きていてくれた。
ユーノの強さを喜べばいいのか悲しめばいいのか。
今抱きしめたいこの気持ちを抑えればいいのか伝えればいいのか。
惑乱に耐えかねて側を離れた。
(この剣が使えるようになれば、『銀の王族』の視察官ができてしまうな)
微かな苦笑をアシャは浮かべる。
よもや『太皇』もそんな事態を考えていなかっただろう。
(特別な『銀の王族』)
自らの運命を自ら選び取っていく、その強靭な魂の出現は、ひょっとすると。
「アオク!」
いきなり響いた叫び声に、アシャの思考は断ち切られた。ユーノも動きを止めて振り返る。
跳ねるように開かれた戸口で、泣き顔になっているエキオラが額の紅宝石をとって、アオクの手に握らせている。
「行くのか?」
「ああ」
アオクは鎧の下にエキオラの紅宝石を入れた。
ユーノが剣を納めて急いで近寄ってきた。
「ボクも行くよ」
「……とんでもない、と断るべきなのだろうが」
アオクは暗い笑みを広げた。
「ありがたい、感謝する」
「……お許しを…そして、どうかご無事で」
涙を溢れさせながら、エキオラがすがるようにユーノを見つめる。頷くユーノの背後から、アシャも口添えした。
「俺も行こう……イルファ」
「おう」
アオクとエキオラの後から戸口に顔を出したイルファがにやりと笑う。
「後を頼むぞ」
「まかしておけ。こっちへ来るようなことがあったら、刀の錆びにしてくれる」
ぽんぽんと誇らしげに叩く剣の柄にはやはり紅のリボンがしっかり結びついている。
「……いい加減にそのリボンを取れ」
「……いい天気だなあ」
戦い日和だぞ、とイルファが聴こえないふりをするのに溜め息をつきながら、アオクに続いて馬に乗った。
「ユーノ、ちゃんと帰ってきてね」
ユーノはレスファートにしがみつかれている。今回は側にラセナも不安そうな顔で立っている。
「お気をつけて」
ラセナが今にもユーノに唇をあてそうな気配で近寄るのに、慌ててユーノが馬に身を引き上げる。
「行くぞ!」
「はっ!」
走り出したアオクにユーノが短い声をかけて続く、そのとたん、
「アオク……愛してるわ!」
「!!」
ふいに激しい叫びがエキオラの口から迸った。
びくりと身を震わせたアオクが、それでも振り返らぬまま拳を握って馬の背に伏せる。
一瞬エキオラを振り返ったユーノが顔を戻す際、見つめていたアシャと視線があって顔を歪めた。唇を噛み、振り切るように顔を背けた表情は切なげで苦しげだ。
愛してる、か。
(お前は、誰を想った)
後を追うアシャの胸にも、エキオラの声が重く響いた。




