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・ その日寛太は珍しく、まっすぐ家に帰れなかった。いや、帰れなかったのだ。
学校で起こったトラブルがおそらくもう保護者会中に知れ渡っているだろう。
彼女の母親は、『取り巻き』は多いが『友達』はいない。
学校じゃ有名なモンスターペアレントである。
自分にしても、二人の母にしても、これからどんな嫌がらせをされるか、わかったものではない。
前回と違って 今回は母の悪口が原因で起こったトラブルだ。
喧嘩になると、前回以上に厄介だろう。
「それで……ここに来たのですか?」
寛太が逃げ込んだのは この町で唯一の禅寺だった。
無口な和尚と、その娘だと言う若々しい尼さんが、たった二人で 管理している。
「寛太ちゃんならてっきり、 オカマバーか柔道教室に逃げるかと思っていましたよ。」
「ロドさんはいい人だけど、家に連絡されると今日は困るんだ。
柔道教室は師範がいなかった。お姉さんは多分、俺が帰りたいっていうまで連絡しないだろうと思ったから……。」
「まぁ。 形はどうあれ、信用していただくのは嬉しい事。
今日は和尚が相手できませんが、しばらくゆっくりしていかれるといいですよ。」
近所でも人当たりの良さで有名な尼さん、千秋。
どこか焦った表情で寺に駆け込んできた寛太に、特に質問攻めにすることもなく、ほうじ茶を出してくれた。
一言礼を言って、ほうじ茶や饅頭などをご馳走になっていた。
10分経ってから、初めて千秋が口を開いた。
「それで…… 何かあったのですか?」
唐突ではあったが、千秋の顔がうっすら笑っていたのと、その声があまりに穏やかだったことからか、黙っているのが申し訳なくなった。
「 実はさ……。」
寛太は一切の事情を説明した。
千秋は驚いた顔をしてはいたが、 頷いたり、相槌を打ったりして 最後まで黙って聞いてくれた。
「 最低だな……女に暴力振るうなんて。」
「いえ、それよりも……。」
千秋は穏やかな声のまま、少し真面目な顔になって言った。
「…今寛太ちゃんがすべき事は、一刻も早く家に帰ることだと思いますよ?」
「 こんな騒ぎになっちゃって、合わせる顔がないって言うか?」
「でも、このままあなたがここに隠れていることは、どう考えてもあなたたち家族のためになりません。
確かに怒られるかもしれませんが、それで二人があなたを見放したりはしない。寛太ちゃんが一番良く知っているでしょう?」
「やっぱ千秋姉さんにゃ叶わない。オレ、帰る……。」
寛太が湯呑をグイッと仰いで立ち上がり、千秋は彼を玄関まで見送る。
ぶっちゃけ叱られる覚悟は決まり切っていなかったが、これ以上千秋に迷惑はかけられない。
第一、これ以上逃げ回るのは、何かこう、もっと大切なモノを失う恐怖が付きまとう。
と、その時。
ガラガラと玄関の扉が開き、息を切らして駆け込んで来たのはユウだった。
顔には、怒りや、焦りや、戸惑いや、安堵や、色んな感情が交じり合って居る。
「寛太……。」
名前を呼んだその声は乾いていた。
珍しく化粧をしていたり、出かけ用のコートを着込んでいる辺り、喫茶店で原稿についての話し合いでもしていたのだろうか。
外の寒気もあってか、吐息が白い煙に変わって吐き出されている。
どこまで事情を知っているのか知らないが、少なくとも何も知らずにたまたま飛び込んできたわけではない様に見える。あるいは、断片的に聞いたとしても冷静で鋭いユウなら事情を理解するだろうか。
「母さん……オレ。」
寛太が何か言う前に、ユウは彼の胸ぐらを掴み、思いきり壁に押し付けた。
「ユウさん!寛太ちゃんは今……。」
千秋が庇おうとするが、ユウはその手を放さない。
「二人の母、それぞれの誓い。」
「え……。」
千秋が言葉の意味を理解するずっと前に、ユウは寛太を問い詰めた。
「アンタと私の誓いは?」
寛太は、ようやくこの状況の意味を理解したらしく、小刻みに震えながら恐る恐る口を開く。
「どんだけユウ母さんを怒らせても、綾実母さんを泣かせない……。」
「分かってんなら、あたしが何でここまでキレてるか、分かるね?
アンタは綾ママを泣かせちまったんだ。聞いた話じゃ、pta会長の娘さんに手上げたって?
男の流儀に反したばかりか、隠れて逃げ回って、約束まで破るってのは……。」
言葉は静かだが、収めようのない怒りに任せ、ユウは寛太の右ほほにビンタを喰らわせた。
「恥を知りな。」
「ユウさん!!」
「バカ息子が迷惑かけたね。コイツ、連れて帰るわ。落とし前、付けにいかなきゃだからね。」
心配する千秋と、それを横切る寛太。
その両目には、大粒の涙が浮かんでいた。
道中、寛太とは目を合わせずに、ユウは話を切り出す。
「……『何で』綾が泣いてたか、分かる?」
寛太が黙って首を振ると、ユウはため息をついてから答えた。
「保護者会のグループライン外されて……クレーム電話が来て『お宅の息子に目にもの見せる』って言われて、綾ってば、『カンちゃんがイジメられたらどうしよう』ってさ。
流石に甘やかしすぎだって叱ったら、『カンちゃんは余程ことが無きゃそんな事しない』って。」
少し呆れたように言葉を切ってから、ユウはやっと寛太と目を合わせた。
「分かる?アンタそれだけ信用されてんの。帰り、まずどうするべきだった?」
「まっすぐ、帰るべきだった……。」
誰に聞いても明白な答え。今回の事を愚かしくは思っていたものの、息子が正解を一応は理解している様で、内心少し安心していた。
「分かってんなら、アタシはもう何も言わない。一緒に、お嬢さんに謝ろう。」
二人が立ったのは、立派な鉄柵の前。
くだんのPTA会長が住む、少し大きめの館の前だった。