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左近太

「左近太・外伝」

作者: 夏ヨシユキ

■【其の1】左近太の新資料に遭遇しました



 評伝「左近太」に書いた曾祖父「左近太」の、欠けていた剣技の具体を示しているかもしれない、新しい資料に行きあたりました。『百魔 續篇』──国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」で発見。1926年(大正15)12月25日(昭和に改元される前日)、大日本雄辯(弁)會(現在の講談社)から発行された書籍です。


 著者は杉山茂丸。その名に瞠目する人は、もはや数少ないでしょう。怪奇・幻想的な作風で知られた昭和初期の作家・夢野久作の父、そしてなにより、汎亜細亜主義を掲げ、明治初年から、日清・日露戦争、朝鮮併合、第一次世界大戦、(中国)大陸侵攻と満州国設立、そして1945年(昭和20)の太平洋戦争の敗戦=無条件降伏まで、政財官軍の背後に蠢き、日本の運命を左右した強大な政治結社「玄洋社」の首魁のひとりです。


 夢野久作は、読んだことはないのですが、忘れられない人です。彼の母校である、旧制・修猷館中学(現・福岡県立修猷館高校)出身の同級生HRD泰明が、卒論で挑んだ対手が、先輩・夢野でした。福岡弁(*1)や博多弁が飛び交う県人学生寮「浩浩居こうこうきょ(*2)」の一室、HRDがとぼしい懐事情をものともせず買い集めた蔵書に圧倒されたことが、忘れられません。そのHRDは、40歳であっけなく死んでしまった。凛とした侍のような佇まいを醸す大酒飲み、シャイで律儀な九州男児でした。諸行無常としか言いようがないです。


 杉山は、現代のものさしでは到底測れない怪人・怪物でした。2015年(平成27)にその著作『百魔 正續完本』を復刊した出版社・書肆心水サイトから、そのプロフィールを引用します。


 ──1864年(元治元)生、1935年(昭和10)歿。

 福岡出身。号は其日庵そのひあん

 明治、大正、昭和の政財界の舞台裏で、

 経済、内治、外交、軍事一体の経綸を仕事とした。

 国内、台湾、朝鮮における鉄道港湾開発事業や

 銀行創設、満鉄創設、外債導入などの実業から、

 日清日露の開戦および終戦講和、

 さらに内閣や政党の組織工作まで、

 伊藤博文、山県有朋を初めとする元老や

 内外の資本家と連携して活動。

 作家の夢野久作は長子で、

 その子にインド緑化の父として知られる杉山龍丸がいる。

 著作は、代表作の『百魔』『俗戦国策』(復刻版書肆心水)

 『其日庵叢書』(復刻版書肆心水『其日庵の世界』)のほか、

 趣味とした義太夫浄瑠璃関係を含め多数。


 つづいて、サイト「松岡正剛の千夜千冊・1298夜/俗戦国策」の冒頭を引用します。


 ──杉山茂丸は夢野久作の父君である。

 近代日本の命運に暗躍した稀代の怪人だ。

 福岡を拠点に中央政界を動かし、

 朝鮮や中国にも奇策を講じて触手をのばした。

 仕掛けたことはつねに法外、埒外、論外だ。

 けれどもその真意、どこにあるのかわからない。

 国粋主義だかアジア主義だか、無節操主義だか、

 コスモポリタンだか、マキャベリストだか、

 政商だか、フィクサーだか、たんなるホラ吹き男だか、

 さっぱりわからない。

 それなのに、

 いまなら地検かマスコミにすぐに叩かれただろうことを、

 しかし生涯にわたって豪快徹底して貫いた。

 こんな男、もう日本にはいない。


 幼い頃から「杉山ホラ丸」と呼ばれたという、周囲を煙に巻く大言壮語を、こともなげにプロデュースし具現化してしまう男。しかも杉山は一度も公職に就いたことがない。生涯を一介の浪人として生きて死んだ。おまけに、軀を解剖用に献体している。


 彼の事蹟を追っていて驚かされるのは、2度伊藤博文を暗殺しようと試みていること。しかし、伊藤が政党・立憲政友会を設立する際には、設立資金を当然のごとく供与するという離れ業も演じている(どういうことなの?)。1889年(明治22)の玄洋社・社員による外務大臣・大隈重信襲撃事件では、黒幕のひとりとして収監されてもいます。


 そんな怪物が、生涯で出会った忘れられない人びと、「本物」であると感じた人びとを衝き動かした、こころの奥底にある「魔」──人智を超えた情動・情念・激情──と、それを綾なす義と人情のありようを、記憶を辿りながら書き綴った、といわれる書物が『百魔 正篇』であり『百魔 續篇』です。ともに600ページにもおよぶ大著です。


 僕は「正篇」の巻頭言と最終章、本稿の主眼である左近太について書かれている「續篇」の一部を読んだにすぎません。でも、とてつもなくおもしろかった。波瀾万丈、狂瀾怒濤にして有為転変、そして快刀乱麻。軍記物の講談を聴くというか、歌舞伎を観ているような、目眩くドライブ感にあふれています。


「正篇」の巻頭言で杉山は、『水滸伝』に言及しています。百八人の好漢が、世の不正に敢然として立ち向かう英雄譚。彼は『水滸伝』に仮託して、親しんだ人の「魔」を記述しようと試みた。「正篇」巻頭言の末尾を引用します。以下『百魔 續篇』引用部分の(  )は筆者の追記です。


 ──(前略)其の趣向の幽妙、文章の靈潑(霊溌)、

 もとより施耐庵したいあん(*3)等の朦影だも

 望むあたはずといえども

 其の事蹟は、ことごとく庵主が之を見聞したる、

 記憶の領域に蒐輯(収集)し、

 之に庵主筆硯あんしゅひっけん枯粧こしょうを加へて

 ひとつの小説的となし、

 以て童蒙哺乳の具に供ふ。讀(読)者或あるい

 時に野花一蝶やかいっちょうの戯るるの思ひあらん

 しかして掲ぐる所の人物は、

 多く今尚存在活動の人に屬(属)するを以て

 粗漫の行文、敢て毀誉褒貶の衝に置くに忍びず。

 故に或は人名地名等を變稱(変称)して之を記述せる所もあり。

 讀者幸どくしゃさいわい諒焉りょうせよ。──


「講釈師、見てきたような嘘を言い」なんて言葉があります。まさに、そんな感じ。虚実皮膜。どこが真実でどこが駄法螺なのか……そんな凡人の下心を見透かすような杉山節が、全編にわたって炸裂します。ピカレスクというか、ビルドゥングというか、ともかく圧倒されます。


 左近太が登場するのは「續篇」です。「十九 中國第一の劍(剣)士奥村左近太 ─ 達人達道を説き 劍戟秘奥を畫(画)す ─」というタイトルで、1章を割いて紹介されています。15章から28章にわたる「『都壽司』の家主八田彌兵衛やだやへえ」の冒険を彩るひとつのエピソード。


 この八田彌兵衛という人物がおもしろい。東京・神田連雀町(現在の須田町あたり)を根城とする、20軒を超える、街の辻々で評判の寿司屋台の元締で、70歳を迎えようかという老人。茶人のような飄々たる風情だが、唯一の道楽が「人の難儀に陷|(陥)りて居るのを人の知らぬやうに助ける」という「魔」にとらわれた男です。


「人助け」といっても、経済的困窮者(本稿で差別表現に拘泥してもしょうがない=貧乏人)に金銭を恵むとか、身投げしようとする人を助ける、といった類いではありません。冤罪に苦しめられたり、無実の災難に遭遇して社会的な指弾を受けている人たちだけを、世間に知られることは一切なく、巧みに助けるという、アクロバティックな「道楽」に一生を捧げた、というのです。


 杉山自身も、官憲の横暴、冤罪にさらされた知人を弁護し抵抗した廉で追われ、彌兵衛に助けられた様子(=彼との出会い)を書いています。3カ月間彌兵衛の差配で身を潜め、(おそらく彌兵衛の手によって)真犯人が逮捕されて自由を得た。そして杉山が聞き出した、長年の「道楽」にまつわる物語の数々を、本人生存中はけっして口外しないことを約束させられた。1887年(明治20)2月、彌兵衛は73歳で亡くなったそうです。


 彌兵衛の死後38年、杉山は、「……知って居る事丈だけなりとも記述して、世に殘|(残)して置かねば、全く斯る偉大な奇人の事蹟を湮滅|(隠滅)に歸|(帰)せしめる事になるから……」という思いに駆られ、その冒険譚を書くことになった。


 八田彌兵衛。幼名彌太郎。阿波の國(徳島県)那賀郡古多島の、大塩田を所有する家に生まれたが、少年時代に家が破産没落。以後数奇な運命、艱難辛苦にさらされることになるこの人物と左近太は、いかにして出会ったのか!?



■【其の2】左近太登場までのいきさつ



 杉山茂丸著『百魔 續篇』「十五 『都壽司』の家主八田彌兵衛 ─ 小少爬蟲を助け 壯時冤罪を救ふ ─」「十六 玄鼎和尚奇特の法力 ─ 大蛇猛火に焼かれ 夫妻兇刄に斃る ─」から、八田彌兵衛が杉山に語ったという、少年時代の冒険についてまとめます。左近太が、どんな人物と交わったのかを知ってほしいので、少々おつきあいください。


 彌太郎(八田彌兵衛の幼名。以後同)は、幼少のころから虫一匹の命を慈しむ少年でした。両親はその心根を忖度し、眞宗の古刹立善寺りゅうぜんじの阿闍梨・玄鼎げんてい和尚に彌太郎を預け出家させることにしました。しかし大事件が勃発します。父・彌三次が、行き倒れ人を助けようとして、身に覚えのない強盗殺人の嫌疑で捕縛されてしまうのです。状況証拠は最悪でした。


 申し開きもかなわず、彌三次は極刑を甘受せざるをえない覚悟を決めていた。と、ある夜。郡役所門前に、山駕籠に押し込められ、猿轡さるぐつわに、身を固く縛り上げられた男が捨て置かれていた。添えられていたのは、動かぬ証拠の品々と罪の仔細を明かした男の供述書。取り調べの果てに、彌三次の嫌疑は晴れました。


 しかし、誰がなぜそんな仕儀に及んだのかは、いっさい謎のまま。彌太郎は、そんな「離れ業」をやってのけ、黙したままいずこかに去った人物に深く感謝しました。同時に、大いなる決意を胸にいだきました。この一件が、「人の難儀に陷(陥)りて居るのを人の知らぬやうに助ける」という、彌太郎が生涯を懸けることになる「道楽(魔)」のきっかけになったのです。


 彌太郎14歳のころ、近在の旅籠の主人夫婦が斬殺されるという事件が起こり、宿泊客のひとりが犯人として捕縛された。事の次第を聞いた彌太郎は、冤罪であると直感。そして師・玄鼎和尚の許しを得、四国巡礼という名目で真相追求の旅に向かい、みごとに真犯人をあぶり出して容疑者の濡れ衣を晴らしました。


 ──わずか十三四歳の身にて、

 くまでに怜悟頴敏れいごえいびん(*4)にして

 氣轉(気転)利きたる行動をなすは、全く尋常に非ず──


 彌太郎の師・玄鼎和尚が、そう感服したと杉山は綴ります。


 そもそも玄鼎和尚その人が、常人ならざる法力の持主です。近郷近在を恐怖のどん底に陥れていた大蛇を殺めた男の女房の物狂い、祟りとも思える異常狂乱を二夜三日の祈祷によって鎮め回復させたといいます。彌太郎は師の傍らにあって、仏化得脱ぶっかとくだつ(*5)のありようを、身にしみて感じていました。


 そしてもうひとり、左近太に深くかかわることになる人物が登場します。一夜の宿を求めて立善寺を訪れた、27〜28歳にみうけられる旅の侍・天野逸刀齋いっとうさい


 ──拙者は江府(江戸)千葉周作の下風を汚す門弟でござるが、

 く諸國を修業して、

 武道の鍛錬を試みるも、

 あえて殺伐の勝負を爭ふのみの為にではござらぬ、

 武を以て心で靜め、身をととのへ、猛を押へ、

 亂(乱)を鎮めるの道を得たいと存ずるより、

 其境涯の穿鑿せんさくに天下を周遊し、

 賢達に接して道を求むる次第でござる」──


 玄鼎和尚は、仏道にも通じる逸刀齋の思い、覚悟に打たれ、また逸刀齋は、玄鼎和尚の識見、活眼、なによりその人物に心服して、仏弟となることを誓った。陪席していた彌太郎は、ふたりの交誼のありようを眼前にしてたまらず、玄鼎和尚に願い出ました。それは、「逸刀齋先生の弟子となり、師の行李を負って、諸国武者修行の道を歩みたい」という、思いもよらぬ懇請でした。


「それもまた、よきかな」玄鼎和尚は莞爾として微笑みました。(これは僕の妄想です)


 ──此の師の坊の超達、天野氏の勁悟けいご

 玄秀(彌太郎の法名)の奇啓(*6)、

 揃ひも揃ひし三幅對さんぷくつい(*7)の

 奇遇であると云はねばならぬのである。──


 三者三様の「魔」が出逢い、とんでもない化学反応が生じた夜の様子を、杉山は第16章の末尾に、そう記しています。


 かくして彌太郎は、逸刀齋に付き従って武者修行の旅を重ね、伊予(愛媛県)・宇和島の城下で、とある冤罪事件に遭遇します。


 長くなるので仔細は省略。彌太郎は逸刀齋のバックアップを得て、伊予・讃岐|(香川県)・阿波|(徳島県)から大阪まで、疾風迅雷・縦横無尽に奔走し、冤罪にさらされた人びとを救け、宇和島藩を揺るがしかねない危難を、みごとに解決します。ふたりの武者修行は、さらに続きます。


 天保元年(1830)、逸刀齋師弟は大阪から山陽道を下り、備前岡山の城下に至りました。


 お待たせしました。ようやく「十八 神刀無念流の達人逸刀齋 ─ 巨虎小鼠をあなどらず 小鼠巨虎をろうす ─」「十九 中國第一の劍(剣)士奥村左近太 ─ 達人達道を説き 劍戟秘奥を畫(画)す ─」に話が及びました。左近太の登場です。



■【其の3】ついに、左近太の剣技に迫ります



 杉山茂丸著『百魔 續篇』「十八 神刀無念流の達人逸刀齋 ─ 巨虎小鼠をあなどらず 小鼠巨虎をろうす ─」「十九 中國第一の劍(剣)士奥村左近太 ─ 達人達道を説き 劍戟秘奥を畫(画)す ─」から、いよいよ左近太の話をまとめます。引用の嵐、しかも相当長くなりそうですが、ご容赦ください。


 まず断っておきたいのは、話の冒頭にいくつかウソ(杉山ホラ丸ならではの駄法螺?)があること。天野逸刀齋・彌太郎師弟が岡山の城下に至り、左近太と出会ったのは天保元年(1830)と記されていますが、左近太は天保13年(1842)生まれです。また左近太が、「私事わたくしことは當國(当国)兒島(児島)郡下津井と申所の、奥村左一郎と申す者でござりますが……」と名のったとされますが、これもおかしい。左近太は岡山城下一番町の生まれで幼名は寅吉です。


 まぁしかし、この『百魔』という天下の稀&奇書において、そんな問題は瑣末なこと。そもそも天野逸刀齋という剣客の事蹟もたどれないし、神刀無念流という流派もみあたりません。再度『百魔 正篇』の巻頭言の一部を引用します。以下引用部分の(  )は筆者の追記です。また引用以外の登場人物の会話等は、筆者が意訳・構成したものであることをお断りしておきます。


 ──(前略)其の事蹟は、

 ことごとく庵主が之を見聞したる、

 記憶の領域に蒐輯(収集)し、

 之に庵主筆硯あんしゅひっけん枯粧こしょうを加へて

 ひとつの小説的となし(後略)──


「記憶(事実)と虚構をないまぜにした小説的な話さ……」と、杉山自身が宣言しています。ここはすなおに、目眩く杉山節に身を委ねたいと思います。しかし、左近太の剣技に関する記述は、僕が探した資料と符合する部分が多く、実にリアルなのです。


 逸刀齋・彌太郎師弟は岡山城下に長逗留することになりました。その剣名を聞き及んだ岡山藩の剣客たちが、逸刀齋との稽古・試合を所望して、我も我もと押し寄せたからです。ある日、18〜19歳にみうけられる青年が宿を訪ね、逸刀齋に面会を求めました。その青年というのが、左近太です。


「先生への欽慕渇仰きんぼかつごう(*8)の思いに駆られ、すべてをなげうって馳せ参じました。どうか私に剣をご指南ください」左近太は懇願しました。


 逸刀齋はしばし、青年の人品骨柄を眺め、


 ── 一見總すべて小作りの男にして背長せたけも低く、

 骨組も軟弱らしく見ゆれども

 其眼光は炯々(けいけい)として人を射り、

 言語進退とも一通りの若者に非ず──


 と見極めました。


「流儀はいかに」と問われ、「昨年死去した藤掛無刀齋の教えを受け、師を貴ぶ思いから神免無刀流を称しております」と答える左近太。「拙者の愚察にたがわず、ただならぬご修業を続けられたものとお見受けする。して得物(武器)は、いかなるものを用いられますか」との逸刀齋の質問に、左近太が示したもの。それは二本の袋竹刀(*9)でした。


 大は一尺三寸ほど、また小は鍔先七八寸ほど。


「神免無刀流」はフィクションですが、独自の「奥村二刀流」を編み出した、左近太の事蹟と合致します。しかし、鍔先「一尺三寸=40センチ程度」「七〜八寸=21〜24センチ程度」というのは、ちょっと短すぎるような……。


 しかし、師・藤掛無刀齋が遺言として左近太に授けた(とされる)訓戒をみると、あながちウソではないようにも思います。以下、列記します。


 一、敵に刀あるを知って、我に刀あるを思ふべからず。

 二、勝敗は入身いりみにありて、

   入身は引身ひきみの鋭きによりて行はる。

 三、引身の鋭きは受け身の備へ堅固にして、

   受け進む力強くして、

   初めて引身の鋭きを得べし。

 四、引身鋭ければ、敵の長短強弱に拘はらず、

   必ず入身の虚を生ず、

   ここに初めて入身にって

   勝敗を決するを得べし。

 五、其餘そのよは長者鍛錬の人に學んで會得(会得)し

   修業を勵(励)むべし。


 これはまさに、評伝「左近太」で類推した、左近太独自の「入身」の極意ですね。うむ、杉山茂丸畏るべし!


 亡師の遺言を聞かされた逸刀齋は、驚き感じ入ります。


 ──武藝は、大小強弱其人をことにし、

 武器長短利鈍其形を分ちますれど

 極意の勝敗は、氣合の熟練にありと承りましたが、

 今貴下御師匠の御遺訓、

 拙者までも肝銘(感銘)に耐へませぬ──


 翌朝七つ時(午前4時ころ)、宿の庭での立合・稽古を約した逸刀齋と左近太は彌太郎を交えて、夜深くまで「武と剣、そして人」のありようについて大いに語り合ったのですが、左近太は大失態をやらかしてしまいます。なんと嬉しさのあまりに眠れぬまま、夜明けに睡魔に襲われ、約束の時間に遅参してしまうのです。


 理由にならない弁解。悄然として平伏する左近太を逸刀齋は追い返します。当然でしょう。しかし「明朝あらためて参られよ」と、微かなチャンスを左近太に与えました。そして翌朝。左近太は居住いを正し、日の出前から、逸刀齋が現れるのをひたすら待っていた。数時間。ひたすら待って待って、身仕度をした逸刀齋が現れた。


 武士の礼儀にもとる所業、勝たんがための謀計? 理路整然とした傑然たるその叱責に、平伏しひたすら恭順する左近太。しかし、涙ながらにも、臆することなく、武辺の覚悟を語り指南を乞うその姿に、逸刀齋はこころ動かされます。


 ──神免無刀流の御太刀筋に對(対)して、いささかにても

 拙者會得の道を得申えもうしたらば、此上もない喜びでござる。

 さあそれでは早々御仕度を願ひます。──


 このあたりは、杉山節がまたまた炸裂する名場面だと思います。「宿の庭での立合・稽古」のはずが、なぜか説明のない「板張りの道場」に場所が変わっているのはご愛嬌、ということにしておきましょう。


 お待たせしました。いよいよ、逸刀齋と左近太が竹刀を交えます。けっこうヒリヒリする撃剣シーンです。


 ──(前略)奥村は淚を浮かべんばかりに喜んで、

 手早くも身仕度をして、道場の眞中に平伏した。

 逸刀齋も相當(当)の仕度をして、

 振り込みき手馴れの大竹刀を以て、立向ひ、

 禮(礼)をなし最前より、平蜘蛛の如く平伏して居る奥村を

 暫く凝視みつめて居たが、

 身體(体)の備へと、息合も齊う(ととのう)たかして、

 大音にやッと聲を掛けた、

 此の息合ひと共に奥村ははッと聲を合せて、

 飛鳥ひちょうの如く一間けんばかり後ろに下って、

 例の短き袋竹刀を正眼に構へた。


 其備への立派な事と云うたら、言語に絶して居る、

 其の身構への柔かなるは綿をつくねたやうで、

 うっかり掛ったらどう身を躱は(かわ)すかも分らぬ程で、

 殊に能々(よくよく)凝視みつめれば、

 此の奥村には呼吸いきがあるか無いかさへ

 分からぬ位に平静である。

 そこで逸刀齋はぐいと鋩先きっさきを下げて

 腹に引付けどんと氣を丹田に鎭めたので、

 之もた呼吸のあるや無きやさへ

 分らぬやうに落付いて仕舞うた。


 や暫く双方睨み合うて居たが、機熟したかして、

 奥村は其儘そのまま膝躄いざりに

 するすると二尺ばかり押し掛った。

 元來逸刀齋はかかる鋭き相手に向って、

 撃たうと云ふ氣合を更にないことに備へたから、

 其儘ままずるずるとうしろに下った。

 其上に押掛れば、奥村は其出鼻を

 只だ一突きに突かれる事を知って居るから、

 又ぴたっと構へて林の如く靜かにして居る。


 暫くすると奥村は正眼の構へをぽいと變(変)へた、

 小刀の方を前に突き出し、大刀の方をたすきに後に取った、

 そこで逸刀齋も鋩先を少し上げて構へた、

 この一刹那に奥村は身を躍らして飛込み來たかと思ふと、

 此ぞ無刀流の奥義にて、さっと五六尺後に身を引いた、

 そこで逸刀齋は其距離を攻むべく身を進めた、

 其處そこに乗じた奥村は、ましらの如く飛込んで來て、

 美事みごとに逸刀齋の小手を取った。

 逸刀齋はほとほと其早業に感じて、

 「實に美事のお手のうちに感服せり」

 と挨拶をしたら、(後略)──


 最後の一撃描写は、左近太の資料と異なります。奥村二刀流は、左手に持つ大刀を横に構え、右手の小刀をクロスさせ、瞬時の入身で勝敗を決するのを奥の手としていたはず。「……小刀の方を前に突き出し、大刀の方をたすきに後に取った」では、構えが逆です(大小をクロスさせる、というのは同じですが)。


 しかしともかく、左近太は逸刀齋から一本取った!


 左近太は、欽慕渇仰する剣客に先手を取った喜びを感じる暇もなく、道場に平伏して願い出ました。


 ──おことばの程恐縮に耐ませぬ、

 靑年の小技をおほめに預る程の事ではござりませぬ、

 仰ぎねがわくば今日は心逝く(ゆく)まで

 御指南を願ひたく存じまする──


「もとより望むところでござる」逸刀齋の言を受け、試合は続きます。そして、左近太は己の未熟を思い知らされることになります。


 ──今度は逸刀齋どこまでも突殺す覺悟にて、

 初手の如くぴたりと付けた、

 備へを堅固にして寸分も緩めず、

 體(体)を靜にしてじりじりと押した、

 何様鋩先下さがりに突一方に構へて、

 堅固に押されるので、奥村も色々工夫を凝らせども、

 何としても逸刀の備が崩れぬので、

 此方こっちに毛筋程の隙があれば、

 だけ押され押されするばかりで、

 とうとう六七尺も押付けられた、

 此ではいかぬ、何とかせねばならぬと思ふ、

 其心の隙に割り込んで、

 逸刀齋は天地も崩るるばかりの掛聲と共に、

 えいと突込んで來た。


 逸刀齋の此の突手は、

 美事に奥村の突皮つきかわ(*10)に命中して、

 眞仰向まあおむきにどんと突倒ふされた、

 そこで奥村は强いて今一本と願ひを入れて立會うて見たが、

 何様逸刀齋の備へが前と同じ事で、

 鵜の毛程の隙もないので、寄り付けられ寄り付けられして、

 とうとう最期の刺止とどめ

 又突の手にめられて仕舞うた。

 (後略)──


 必殺の突き二本。完敗でした。左近太は面をはずし、逸刀齋の足許にひれ伏しました。


「拙者は、武芸について何人なんぴとにも愛嬌(お世辞)は申しません。小手を取られたのは、まさに貴殿の技が勝っておられたからのこと。拙者の完敗でござった……」率直に負けを認める逸刀齋が、つづけて先手を取られた理由わけを左近太に語ります。


「ただ、拙者のこころの裡に『いかに武芸に練達されているとはいえ、貴殿は十八歳の青年。たとえ神童仙児の権化であっても、その力量には限りがある。ひと呼吸のもとに押さえつけられぬことはあるまい……』という、払いのけようとして叶わなかった、驕り、油断があったことも真実でござる」


 どのような相手に対しても、不動の備えを崩さない逸刀齋のこころに生じた一瞬の油断。「尚々(なおなお=さらに)貴殿のみごとな構え、気合、太刀捌きに見惚れるあまりに、身構えを立て直すのが遅れ、生じた隙を突かれたのでござる」逸刀齋の、望外の讃辞も聞こえぬかのように、左近太は食い下がる。


「さすれば先生、後の二本、私が突きの手で負けましたのは、いかなる理由わけがございますか」左近太もまた、剣の道という「魔」にとらわれた男でした。「芸道(*11)知遇の貴殿にお目にかかれた嬉しさもあり、包み隠さずお話し申し上げましょう」逸刀齋がさらに語ります。

 

 ──(前略)拙者の流儀に「死身の太刀」と

 申物もうすものがござる、

 それは「斯る相手に出會うては到底勝身の考は

 盡(尽)き果てたと思ふ時に、

 覺悟の考へを極めるを、秘奥とするのでござる、

 故に絕對|(対)に相手の技も備へも見ませぬ、

 どこからでも、勝手にきり殺されて宜敷よろし

 只だ其斬り殺される中には、

 此の突の一手を以て、

 屹度きっと相手方を突殺さずには置かぬ」と

 覺悟致したのでござる。──


 左近太は逸刀齋の、剣の真髄、凄みに打ちのめされます。ノックアウト。


 憧れの剣士が「死身」で迫ってくるそのときに、自分は「どうにかしてのがれよう、なんとか防ごう、隙をみて打突しよう」といった雑念にまみれていた。左近太は、未熟でした。


「拙者が『死身』になったとき、貴殿も『死身』を覚悟されたなら、その一瞬に我らは五分五分になり申す。さすれば、後は互いの技の大小と存ずる。貴殿の鋭き二刀と拙者の突き、『死身』になれば五分なれど、後の二本のことは、たまさか拙者が年長であったということにすぎませぬ」


(おとな、達人だ!)左近太は逸刀齋の言葉に触れて、満身に汗を浴びるほど恥じ入り、(この人の弟子になろう!)と誓った。そして、月日の経つのも忘れるがごとく稽古に励みました。逸刀齋と左近太の仔細を残らず見聞きした彌太郎は、それ以降、左近太に倣って袋竹刀で剣道の稽古に励んだそうです。


 やがて、逸刀齋と彌太郎が岡山を去るときが訪れました。


 ──(前略)それより天野逸刀齋は、

 岡山藩公がお目見得を仰せ付られ

 「藩士への指南苦労を慰める」とのことで

 客分の待遇をこうむり、

 ついに岡山を出立して、

 作州路(美作方面)へと分け入る事となった時、

 天野は藩公に謁して、

 當(当)年十九歳の奥村(改名)左重さじゅう

 藩士の指南に推奨した。

 是ぞ後年、中國第一の大先生奥村左近太と云ふ名を、

 天下に上げたのである。(後略)──


 乾かぬ露に美作の、憂き寝の夢や旭川、いずれ澱まぬ心にも、逆さまに突く竹の杖……(名調子、杉山節!)逸刀齋・彌太郎師弟は左近太に別れを告げ、さらなる冒険の旅に出立したのです。


 左近太が岡山藩の「剣術指南役」であったのは事実です。しかしそれは明治4年(1871)のこと。藩公(池田章政公)から武術鍛錬所「武揚館」の一等教授に任ぜられ、藩士たちを指南することになりました。左近太は当時27歳でした(評伝「左近太」〈其の5〉をご参照ください)。


 杉山「百魔」節の超ダイジェスト。事実関係、虚実皮膜はともかくとして、怪人・怪物「杉山茂丸」の、有無を云わせぬ筆致には圧倒されました。


 でもどうです、読みたくなりませんか。本編は、それはそれは、目も眩まんばかりの怒濤の展開。掛け値なんかありません。よろしければぜひ、「近代デジタルライブラリー」を覗いてください(「百魔」で正続巻ともに検索・閲覧できます)。



■【余談】宿縁!? 杉山茂丸+山岡鐵舟+左近太



 杉山茂丸の、左近太の剣技についての記述が具体的なのはなぜか、と考えました。僕が持っている僅かな資料と合致する部分が多々あって、不思議でした。


 そういえば……Wikipediaに確か!?


 ──(Wikipedia「杉山茂丸」より引用/前略)

 民約論や仏蘭西革命史などを読んで政治に目覚め、

 明治13年(1880)、諸国巡遊に旅立ち、初めて東京へ。

 この間、山岡鉄舟の門人となり、

 また後藤象二郎や大井憲太郎などと知遇を得た。

 滞京一年半で帰郷するが、明治17年(1884)、

 熊本の佐々友房から旅費を借りて上京、

 伊藤博文を悪政の根源、脱亜入欧、

 藩閥の巨魁と目してその暗殺を企て、

 山岡鉄舟の紹介状を持って面会に成功するが、

 逆に、お互い国家のために身を大事にと

 説伏されて断念した。──


 つながりました。基点となっているのは「山岡鐵舟」です。1884年(明治17)杉山は二度目の上京を果たし、師と仰ぐ鐵舟の紹介状を携えて伊藤博文と会っている(面会に成功したのは1885年[明治18])。


 もうひとつのつながりは、「左近太」最終章に書いた、『今日こんにち新聞』(東京新聞の前身)の、有名人のうわさを伝える雑報にあります(再録します)。


 ──1884年(明治17)11月27日、山岡鐵舟は東京で、

 備前の剣客奥村左近太と剣術試合に臨んだ。

 「奥村氏は新陰流二刀を使い、

 向かうところ敵無く破れることまれなり、

 山岡氏は平常素面ながら昨日は道具を付けて臨み、

 三本とも勝ちを得たり」──


 鐵舟は神陰流、北辰一刀流の免許皆伝、一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖として知られる剣の達人。嗚呼、妄想が広がります。


 この試合に、杉山は陪席していたのではないか? そして、彌太郎こと「都壽司」の家主八田彌兵衛も同席していたかもしれない!? 試合後の鐵舟と左近太の剣談を近くに聴き、また親しく会話したかもしれない……。


【鐵舟と左近太+(杉山)茂丸の〈超〉妄想会話】

 *元ネタは「百魔 續篇」です。


〈鐵〉奥村(左近太)さん、おめぇ(前)さん、

   剣の奥義ってぇのはなんと心得ておられるね?


〈左〉はい、『敵に刀あるを知って、我に刀あるを思うべからず。

   勝敗は入身にありて、

   入身は引身の鋭きによりて行わる』いうて(と)

   存じとります。


〈鐵〉そうかぇ、なるほどねぇ!

   初手のおめぇさんの構ぇには畏れ入った。

   息があるのかねぇのかすら、わからなかった。

   おまけに、綿をつくねたように柔らけぇ。

   明鏡止水にして融通無碍……

   こいつぁ難敵、付け入る隙がねぇと思ったぜ。


〈左〉畏れ入ります。

   私は、只ただ、先生の鋭でぇ(鋭い)

   御構ぇにてゃあして(対して)……


〈鐵〉先生なんて、よしてくんな、

   こっぱずかしい。山岡でいいんだよ。


〈左〉それは、なんぼにも(あまりにも)失礼かと。


〈鐵〉いいからさ……いいってことよ。


〈左〉はい先生……いや、そんじゃあ失礼して、山岡さん、

   あなたさまの御構ぇに、私はただ、

   いつもの自分でおろう(いよう)と

   思うたまでのことでござります。


〈鐵〉さ、そこさ、おめぇさんの凄ぇとこは。

   引身は、逃げてるわけじゃねぇよな。

   鋭でぇ引身は、万全の備えってぇことだろ?

   下がっているようで実ぁ、攻めてるってぇことだ。


〈左〉慧眼畏れ入ります。

   鋭でぇ引身は『受け身の備へ堅固にして、受け進む力強くして、

   初めて引身の鋭きを得べし』いうて(と)心得とります。


〈鐵〉やっぱりな。畏れ入ってんなぁ、おいらだよ。

   奥村さん、おめぇさんは大した侍ぇだ。

   御一新(明治維新)なんてぇバカ騒ぎがなきゃぁ、

   天下取れたかしんねぇぜ。


〈茂〉(鐵舟)先生、奥村先生、『引身・入身』の肝っちゃぁ、

   どげん(どんな)とこにあるんじゃろ?


 剣客ふたりの会話に、たまらず割って入る(杉山)茂丸。20歳になったばかりの青年だ。


〈鐵〉ふむ「茂の字」、おめぇもそこが気になるか。


 左近太は鐵舟から、門弟の旧筑前福岡藩士というその青年が、試合に陪席することを知らされていた。


〈左〉杉山さん(と)いわれましたかのぅ(でしたか、確か)。

   ワシは、鋭でぇ引身がありゃあ(あれば)、

   対手が強かろうがも弱かろうが、

   どんな得物(武器)を持っとるとしても、

   必ず入身を取る刹那が生じる(と)思うとるんです。

   そここそが勝負、いうことです。


〈茂〉なるほど。

   じゃがワシは、まだ隠されとるおふたりの秘術を

   知りてぇ思うちょります。


〈鐵〉奥村さん、すまねぇな。

   こいつ、「茂の字」ぁ、場所柄をわきまえねぇで

   ずけずけ物を言いやがる。


〈左〉せんせ……いや、山岡さんと試合う前より、

   そこにおられた杉山さんの佇まい、

   何ごとも見逃すみゃあ(見逃すまい)とする眼光の鋭さに、

   感服しとりました。よきご質問にござった。


〈鐵〉そうかい、ありがとよ。

   こいつぁ、大言壮語する鎮西(九州)野郎だが、

   公方様|(徳川将軍家)ぁともかくとして、

   新政府の理非曲直を正そう、

   薩長の我儘勝手、やりてぇ放題ぇを挫こうってぇ、

   おもしれぇ男なんだ。


〈茂〉ワシはおふたりを見ちょって、思うたことがあります。

   最初|(鐵舟)先生も奥村先生も、

   迷うちょられたように見受けました。

   じゃが二本目からは、おふたりの気配が変わった……。


〈鐵〉ハッハッハ、「茂の字」その通りだ。


〈左〉杉山さん、よう見てとられた。

   二本目からの山岡さんは「死身」に構ぇられたんです。

   じゃからワシも肝をすえました。


〈茂〉……!?


〈鐵〉奥村さんの二刀は、なまなかのこっちゃぁ破れねぇ。

   そう思ったからおいら、命を差し出す覚悟を決めたのさ。


〈茂〉そんじゃ先生、負ける覚悟をされたっちゅうことですか?


〈鐵〉そうじゃねぇんだ「茂の字」。

   達人を相手にして万策尽きたとしな。

   そうなったら最期、相手の技も備えも見ねぇ。

   そいからさ……肝心要なのぁ、

   斬り殺されたってかまわねぇ、

   ただし、斬り殺される刹那に、

   こっちも相手を突き殺さずにはおかねぇ、

   ってぇ覚悟を決めることさ。

   それを「死身」っていうんだ。


〈左〉腹蔵のう(なく)申し上げるなら、

   山岡さんの「死身」は、総毛立つ思いじゃった。

   ワシの覚悟も、そこで定まった。

   杉山さん、「死身」いうんは、

   「勝ちてぇ」「負けとうねぇ」とか

   「隙を見つけにゃ(なければ)」いうような、

   妄執・邪念のねぇ境地のことなんじゃ。

   失礼を省みず言うなら……

   山岡さんは、さすが凄かった。

   ワシなど遠く及ばん(及ばない)

   みごとな高みに達しとられた。


〈鐵〉いやいや、おいらが「死身」になったら、

   たちどころに奥村さんも「死身」をとった。

   そうなっちゃぁ、もう五分と五分。

   勝負がつかねぇのは、あたりめぇの話よ。

   嬉しいねぇしかし。

   こんな、真っ当な剣客が日の本にまだいた、

   ってえのが、さ。


 茂丸は、巡り会えた僥倖を喜ぶ、ふたりの剣客の素顔、剣の真髄を見たこの日のことを、こころに深く刻みこんだ。


(▲なんちゃって「〈超〉妄想会話」はここまで)


 眼前にした左近太の剣技、直に聴いたその「剣論」を、記憶を辿りながら杉山が書いたとすれば、納得のいく話です。妄想の極致ではありますが「(鐵舟が)三本とも勝ちを得たり」という「今日新聞」の記事にも違和感を感じます。


 ベタ扱いのゴシップ欄。記者は伝聞として、鐵舟という文武両道の権化、無私無欲の傑物を慮るというか、試合の詳細を知らされぬまま記事を書いた!? 事実は「百魔 續篇」の記述どおり、左近太の小手一本、鐵舟の突き二本だったかもしれない。いや、互いに譲らない、静謐だが息を呑むような「死身」の対峙が続いた可能性だってある。


 鐵舟48歳、左近太42歳。円熟の境地を迎えようとしていた剣士ふたり、そして杉山だけが知る、「死身」のリアル、刹那の剣(竹刀)の交錯。そして「奥義の応酬は秘するべし」という、剣客ならではの、ストイックな思いの結末だったとすれば、たまらなくおもしろい……と、僕はひとりごちています。


「百魔 續篇」神刀無念流の達人天野逸刀齋。これは杉山が鐵舟に仮託し創り出した人物だと思います。虚実・時空をないまぜにして綴られた「杉山版・左近太物語」。いや、やっぱりすごいです。


 長々とおつきあいいただき、ありがとうございました。これにて「左近太・外伝」の段、読了とさせていただきます。


(左近太・外伝 了)


………………………………………………………………………

【余談の余談】


 伊藤博文暗殺未遂についての鐵舟と杉山の逸話、杉山の怪物ぶりをまとめた話の抜粋を、以下に引用しておきます。


 一、伊藤博文暗殺未遂事件

  「松岡正剛の千夜千冊・1298夜/俗戦国策」より引用


 ──(前略)明治18年になると

 (杉山は *筆者注)山岡鉄舟を尋ねて、

 伊藤暗殺を相談した。こういうところも変わっている。

 魂胆を隠さず、それを最もふさわしい痛快な人物に

 真正面から秘密をぶつけ、ばらしてしまうのだ。


 しかし相手は名だたる鉄舟である。

 茂丸の横っ面をぴしゃりと鉄扇で叩くと、

 思いとどまるように叱責した。

 それでも茂丸はあきらめない。

 鉄舟はあえて紹介状を書いて、

 そこに茂丸が暗殺の意図をもっていることを

 添えることにして、封をした。

 茂丸はやっと伊藤に出会えたのである。

 このとき伊藤43歳、茂丸22歳。


 伊藤は茂丸を悠々とあしらった。

 むろん勝負にならない。

 すでに鉄舟の手紙で事情をつかんでいたので、

 逆に伊藤は秘書の井上毅を通して

 茂丸の素性経歴を洗い出していた。

 茂丸はすごすごと帰るしかなかった。


 これがいわゆる伊藤博文暗殺未遂事件の

 一部始終であるが、

 どうもそういう感じではない。

 テロリストっぽくはない。

 のちのちに広がっていく

 壮士の駆け引きの演習のようにも、

 そのための心身の修行のようにも見える。

 (後略)──


 二、怪物・杉山茂丸(抜粋)

  「日本の〈怪物〉杉山茂丸 ─政財界の巨頭を手玉にとる

   明治国家の影のプランナー」

  (静岡県立大学国際関係学部教授・前坂俊之氏 筆)より引用


 ■明治、大正の政財界の裏面で

 歴代宰相や元老、政治家を

 人形使いのように自由自在にあやつり、

 明治国家をデザインした杉山茂丸は

 ナゾに包まれた人物である。


 ■明治、大正、昭和の歴史的事件の陰には

 必ずといっていいほど、

 杉山の存在があった、といわれた。


 ■当時の新聞、雑誌にも「政界の黒幕」

 「策士」「国士」「ほら丸」「謀士」「怪傑」「怪人」

 「怪物」「魔人」と、さまざまなレッテルがはられている。

 「もぐら」を自称していた杉山は、

 黒子に徹して地下深くに穴を掘り、

 歴史を義動させた。時々、地表に顔を出した が、

 その行動の点と線ををたどると、

 巨大な軌跡が浮かび上がってくる。


 ■茂丸は神出鬼没、縦横無尽に活躍しており、

 その行動は波潤万丈である。

 しかし、自らをモグラにたとえた茂丸は裏方に徹しており、

 「その日暮らしが一番性にあっている」として、

 「其日庵」と称していた。


 ■長男で作家の夢野久作は「近代快人伝」の中で

 「茂丸はいつも右のポケットには

 二、 三人の百万長者をしのばせ、

 左のポケットにはその時代の

 政界の大立者四、五人はしのばせて

 『政治は道楽だ』 といいながら、

 自在にあやつった」と書いている。


………………………………………………………………………

●脚注


*1 福岡弁:世間的には「博多弁」なのかもしれませんが、厳密に言うと違いがあるそうです。商業地・博多ではない、城下町・福岡出身のHRDの名誉のために……。


*2 浩浩居:(「てつ校長のひとり言」より編集引用)福岡出身の元総理大臣・廣田弘毅(東京裁判で死刑を宣告され処刑された唯一の文官)が、同郷の友人たちと共同生活を始めたことがきっかけで設立された学生寮。東京・杉並区西荻窪にあります。古色蒼然として風格のある木造の寮でした。学生時代、近隣の失火による飛び火で全焼しました。いまは立派に再建されていることを改めて知りました(浩浩居ホームページをご参照ください)。


*3 施耐庵:(Wikipediaより引用)「したいあん」は、中国の小説で四大奇書の一つである『水滸伝』の作者であるとされる人物。 生没年は1296年~1371年というが、疑わしい。


*4 怜悟頴敏:(Wiktionary・大辞林より編集引用)「怜」は「迷いがなく賢い」こと。「令」の原義は神からのお告げで、その音 leng/ ling は清らかなもの、涼やかなものの意をふくみ、心に曇りがなく賢いの意。また「頴敏」は「鋭敏」と同じ意味。


*5 仏化得脱:(Wikipediaより編集引用)「仏化」は、化仏けぶつと同義と思われます。変化仏、または応化仏の略。仏や菩薩が、衆生を救うため、その機根に応じて現れる仏や菩薩、また明王となった姿。仮の仏形。化身。/(コトバンク・大辞林より編集引用)「得脱」は「生死の苦界から脱して、菩提に向かうこと。悟りを得ること。


*6 超達/勁悟/奇啓:(Wiktionary・コトバンク・goo辞書などから換骨奪胎した筆者の妄想)検索しても見つからない熟語たち。「超達=超達人」「勁悟=悟りを得た剣の達人」「奇啓=(若くして教え導く道を悟ろうとしている不思議くん)」。まぁ、とにかく3人とも常人にあらざる「すごい」人だという表現でしょう。


*7 三幅對:(字源─ jigen.net ─から引用)三つ竝(並)べて掛ける様に作りし軸もの、轉(転)じて、物の三つにて一組になるもの。


*8 欽慕渇仰:「欽慕」は敬いしたうこと。敬慕(goo辞書)。また「渇仰」は心からあこがれ慕うこと(デジタル大辞泉)。憧れ、慕うあまりに狂乱しそうだ……てな、思い詰めた感じがする言葉ですね。


*9 袋竹刀:竹刀(四つ割竹刀)が考案される以前に剣術の稽古に用いられていた道具の一種。一本の竹を幾つかに割り、革を被せて筒状に縫い合わせ、保護したもの。流派によって竹を割る数は四つ割り、八つ割、先を多く割る、割竹を数本袋に詰める、剣道の竹刀ように数本の竹を中結したもの、などさまざまである。長さは流派によって異なり、新陰流では、革に赤漆を施して表面の劣化を防ぎ、全長を三尺三寸(小太刀一尺七寸五分)と定め、縫い目を以って刃と見立てる(Wikipediaより編集引用)。新陰流の規格を見ると、やはり左近太の竹刀はかなり短いですね。


*10 突皮:剣道で最も難しいとされる決め技、「突き」を決める喉を防御するための、面の下の「顎」と呼ばれている部分だと思われます。「突き」は危険な技でもあるため、現在、目上の剣士に繰り出すのはタブーとされ、また、高校生以下の剣士には禁じ手とされているようです。


*11 芸道:「芸道」は「武芸の道」の意。かつての武士のたしなみ、弓・槍・馬術を究めることは、実は、歌舞音曲、猿楽・能楽、茶道・華道、俳諧などと同列の「芸能」の1ジャンルでした。なので「武芸」と呼ばれたわけです(故・網野善彦氏の著作からの受け売りです)。しかも最優先されたのは弓・槍・馬術の技。太刀(剣)が重要視されるようになるのは、戦国末から江戸時代以降です。

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[一言] なろうで杉山茂丸の名前を見るとは思いませんでした。
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