救助活動(その2)
西空に浮かぶ太陽は、徐々にその浮力を失い斜陽へと変化していく。
マリアンはその赤い落日を見ながら、急がねば、と思った。
三月も間もなく中旬とはいえ、北国の春はまだ寒い。
春陽を失い、星の瞬く時間を迎えれば空気は冬を思いだし、時に凍てつく刃を見せる事もある。そうなれば要救助者の女性に襲いかかる事も必至だ。
ぶり縄で二〇メートル級の黒松の中腹にまで登り、そのたどり着いた幹から生える、要求書者が引っかっている枝に跨る形で乗ったマリアンは、枝元を両腿で確り締めて固定しながら、背負っていた迷彩柄のミリタリーリュックを下ろし、中からコイル状に纏められたクライミングロープを取り出した。
そして彼女の青瞳は、自分が跨る枝元からその梢の先を目測する。
その距離は約五メートル。枝の中程に女性はお腹を軸に垂れ下がる形で裸のまま、(おそらく服は波の力で脱げてしまったのだろう)枝に引っ掛かっていた。彼女の長い黒髪が風でそよいで揺れる。
マリアンは救助に必要な長さの分だけクライミングロープをサバイバルナイフでカットすると、ロープのそれぞれの一端をぐるりと、黒松の幹と自分の胴に巻き付け、もやい結びをした。そして女性の方を見る。
(問題は……)
マリアンは思案する。そう問題はどうやって要救助者の所まで辿り着くかだ。
彼女は枝元から跨いだ姿勢で、数十センチ梢の方に進んでみた。――枝が僅かにたわむ。
(小柄な岡林曹長の方が適任だったかしら。いや、でもこの足場の悪い状態では、彼女の力で担いで救助することはできないし……)
身長一九五センチ、体重七二キロの体躯がこのシチュエーションにおいて、マイナスでもありプラスでもあった。
課題は如何にマイナス面を克服するか……。しかし彼女が思考を巡らせても良い案は浮かばない。
(私独りでは無理か……)
そう思い至ったとき、ちらちらと小さく白いものが空から沢山舞い散ってきた。――雪だ。
(そんな――、さっきまであんなに晴れていたのに)
慌てて天を見上げる。空は厚い雲におおわれ、美しかった西空の夕陽は鈍色に塗りつぶされていた。
雪は刻々と激しくなり、冬の目覚めが周囲を凍てつかせる。
(どうしよう……)
枝がへし折れるのを覚悟で要救助者の所まで行こうか、そんな良からぬ思考がマリアンの脳内に働く。下は砂地だ。落ちる時に彼女を抱きかかえ、自分が下になって背中から落ちれば、上手く助け出す事が出来るのではないだろうか?
(愚策だが他に方法が思いつかない。それに躊躇していれば雪が積もって足場は悪くなり、状況は益々悪化するばかりだ)
マリアンは跨っていた枝元を足場に、平均台に立つようによろよろとバランスをとりながらゆっくり立ち上がり、背を黒松の幹に預けた。そして右手の平を口元に添え、大きな声で要救助者の女性に声を掛ける。
「今助けに行きますからねーっ! もう少しの辛抱です、待っていてくださぁーーいっっ!!」
――返事はなかった。雪風の吹く音と波の音だけが辺りを支配する。気絶しているのか、それとも……
いや、最悪の事態は考えまい。彼女は生きているものとして救助にあたる。そのために自分は今ここに居るのだ。
「よし、行こう」
決意を口にする。図体はデカくても身軽さには自信があった。何せ自分はハイスクール当時――。と過去に想いを耽けかけたとき、吹きすさぶ雪風に乗って人の駆けてくる気配が背後から感じられた。気配は二つ。
マリアンは足場に気を付けて黒松に掴まりながら後方を向くと、幹の影から砂浜の辺り一面を見渡した。そして「あっ」と声を上げる。
「鶴見一曹! 国東三曹!」
自衛隊員にしてはヒョロッとした体格の鶴見清武一等陸曹と、その鶴見の倍近くの恰幅をした筋骨隆々な国東緋色三等陸曹。鶴見は右脇に担架と左脇に毛布を抱え、国東は左片方の脇に毛布、もう片方の脇にオレンジ色の折りたたまれた大きなビニールシートのような物を抱えていた。
(あれは、あのオレンジ色の物はまさか……)
マリアンは下で自分を見上げている、風妻真吾二等陸尉を驚きの目で見下ろした。彼は驚愕の中にも真剣な思いが入り混じった眼差しでマリアンを見つめている。彼女は、もう直ぐこちらにやって来る鶴見、国東両名と、風妻の表情を交互に見た。
すると風妻も彼女の向ける視線の方向に気づいて、部下二人がやって来る方角に顔を向ける。その後マリアンの顔を見上げて、右手でサムズアップをして見せた。
マリアンはそれを確認するとパッと相好を輝かせた。
(そうか、やっぱりあの国東三曹が持っているオレンジ色の物はあれなんだ! それなら!)
それなら自分は安心して、あの女性を救助に向かう事ができる。
これで歩を進める勇気がもらえた。マリアンは再び要救助者の女性の方をゆっくり向くと、立った状態のまま、枝元から梢の方向へ小さく一歩前進した。
「おい、岡林! カーの奴平均台の上を渡るように、枝の上を歩き始めたぞ! あいつあんな図体をして、あんなに身軽だったのか!?」
風妻が右手の人差し指をマリアンにさし、彼女と岡林を驚愕の表情で何度も交互に見比べながら、同じく驚嘆の表情で彼女を見上げている岡林に問う。
「いいえ、隊長! あたしもあんな彼女を見るのは初めてです! そんな……マンモスが綱渡りをしてるみたい!」
その言の葉は、雪風を裂いてマリアンの耳に届いてしまった。
それは一歩間違えればマリアンを傷つける一言であった。
しかしマリアンはその岡林のセリフを、ふっと軽く笑って心の中でいなした。
岡林だって自分を傷つけるのが目的で放った一言ではないだろうし、隊の中では上下関係があれど、その枠を一歩出れば彼女とは親友同士だ。
「昔の自分だったら、いくら怜奈の言葉でも落ち込んでたけど……」
マリアンは黒松の枝の上でまた小さく歩を進めた。右足から歩き始めたので今度は左足だ。両腕を広げてバランスをとる。枝は要救助者の女性とマリアンの体重が合わさって、徐々に下にたわみ始めた。
(それにしてもマンモス、か。ハイスクール時代はよく言われたな……)
岡林の悪意の無いセリフと違い、邪気に満ちた言葉の弾丸をマリアンは学生時代散々受けてきた。その鉛弾は心に食い込み、今でもじゃりじゃりと音を立ててはフラッシュバックの魔物を呼び起こす。
彼女は救助活動に集中はしていた。さもなければ足元が狂い、十メートルの高さから地面に真っ逆さまだ。
じゃりっ、とマリアンの心の奥底で小さな音がする。
(――くっ、こんな時に)
岡林の言葉はいなしたハズだった。実際彼女の一言で傷ついてなどいない。しかし呼び水にはなってしまったようだ。
『じゃりっ、じゃりっ、じゃりっ、じゃりっ――』
心の中から嫌な音がする。聞きたくない音! 聞いてはならない音!
心に食い込んだ数多くの鉛の弾丸が、ずるずると生き物のように寄せ集まり、一瞬すべてが溶けたかと思うと、黒い邪気を帯びて大きなハサミに形を成し、しゃきんっ! しゃきんっ! と金属が擦れる音がして双方の刃がなんども交わった。
そのハサミは刃を開閉しながらゆっくりとマリアンの方を向くと、突然彼女へ対して飛び掛かり、集中力の糸をぷつん、と切ってしまった。途端マリアンはフラッシュバックに襲われた。
高校入学当時、既にマリアンは身長が一九〇センチを超えていた。
当然のようにバスケットボール部とバレーボール部に目を付けられ、しつこく勧誘された。
しかし、マリアンはそれらの誘いを全て断った。彼女には入りたい部活があったのだ。
女子新体操部――。
彼女の夢は、全日本新体操クラブ選手権大会で優勝すること。
マリアンは最初その夢を他言しなかった。口外すればバカにされるのは目に見えていたからだ。
ところがバスケットボール部とバレーボール部の勧誘は執拗だった。既に勧誘期間は終わり、マリアンも女子新体操部に入部が決まっていたにも関わらず、それぞれ自分のクラブに入るよう粘着質な勧めを受け続けた。
そして行き過ぎた勧誘活動は、部活活動中の彼女の所まで及んだ。ある日の放課後、マリアンが学校の構内にある女子新体操部の練習場所である第二体育館で、先輩や同級生たちと練習していると、バスケットボール部のキャプテンと、バレーボール部のキャプテン、そしてその後ろから、幾人かの彼女等の部員らしき人達と野次馬がこぞってやって来た。
「カーさん! あなたは何十年かに一度の逸材だわ! その才能を新体操なんかに埋もれさせるのは勿体ない! あたしたちの女バスに入ってくれたらあなたは全国で輝けるのよ!」
女子バスケットボール部のキャプテン、姉ヶ崎円佳が、練習着姿(トップはTシャツ、ボトムスはズパッツ)のマリアンに迫る。彼女の両肩を掴みたいところだったが、届きにくいので、両二の腕をそれぞれの手で鷲掴みにする。
すると、その様子を見ていた女子バレーボール部のキャプテン六星院昴が、円佳に向かって声高らかに笑った。
「オーホッホッホッホッホッ! 姉ヶ崎さん。あなた、何を言ってるんです! 県大会初戦敗退がデフォのあなた方女バスが、全国を語るなんてヘソがアールグレイを沸かすようなものですわ! カーさん。いえ――、マリアンと呼ばせていただきますわ。どうですマリアン、わたくし達女子バレーボール部に入って、全国制覇を目指しませんこと!? あなたが入部してくれれば決して難しい事ではないと思いますの!」
昴は円佳を、ごめんあそばせ、と横尻で突き飛ばすと、マリアンの前に立ち、テーピングだらけの右手を差し出して、にこやかに彼女へ握手を求めた。
しかし、マリアンは苦虫を噛み潰したような表情でその差し出された手を見つめるだけで、握り返しはしなかった。
「ねぇ、カーさん。全国にその名を轟かす、六星院さま自らのお誘いなんです。まさか断るなんて事はないですわよねぇ」
「まさか。六星院さまの申し出を断るなんて、学校全体を敵に回すようなものだもの。アタシだったらそんな愚かなこと絶対しないわ」
昴の取り巻きのうち一人が、マリアンの顔を見上げ自分の腰に手を当てて昴の傍からズイッと詰め寄り、もう一人はその様子をすぐ後ろから眺めながら、腕組みをしてクスクスと笑っていた。
「ちょっと待ってっ! 先に彼女に声をかけたのは、あたし達女バスよっ! 交渉権は先ずあたし達にあるわっ!」
「「そうよ! そうよ!」」
円佳と他、同部員数名が、昴とその取り巻き女性等に詰め寄る。
「そんなのカンケーないですわ! 六星院さまは我が校の女子バレーボール部を常に全国に導いてきたお方! 万年県大会予選、初戦敗退チームの将とは格が違いますわ!」
「そうそう。自分の立場ってモノを良く考えて、六星院さまに楯突いた方が良いんじゃないかしら? まぁ、アタシだったらたとえ常勝の将でも、六星院財閥の次期当主に歯向かおうなんて考えもしないけど」
昴の二人の取り巻きは、円佳の方を見てほくそ笑む。円佳は垂れ下がった両腕の先のそれぞれの拳をギュッと握り締め、悔しそうに取り巻き達を睨み据えていた。
「まあまあ。あれでも一応一軍の将なのですから、敬意の念は忘れてはいけませんわ」
「一軍の将というより、敗軍の将という呼び方のほうが彼女にはお似合いですわ、六星院さま」
「そうですね。負けが込み過ぎて、いつ戦犯扱いされてもおかしくありませんもの。まったく、こんな人は六星院さまの爪の垢を煎じて飲ませても何の効き目もないでしょうね」
「――っ、なんですってぇ~~っっ!!」
円佳の怒りが沸点を突破した、その時。
「いい加減にして下さいっっっ!!!」
怒号が体育館中に響き、その後辺りが水を打ったように静まり返った――。コンッ、コン、コン、コン、コン、コロコロコロ――と、床に何か軽いものが落ち、跳ねて、転がる音が館内に響き渡る。
仕切りネットの向こうで、第二体育館を半分使って、ラリーの応酬をしていた卓球部員たちがマリアンを見て固まっていた。
「――私は新体操がやりたいんですっっ!! バスケットボールも、バレーボールも興味ありませんっっ!! 練習の邪魔ですから出てってくださいっっ!!」
金髪のシニヨンの髪型を振り乱す勢いで、円佳や昴たちに叫ぶマリアン。その憤りは激しく、円佳や昴、彼女たちの部員等や女子新体操部の部員たち、そして昴の取り巻きや野次馬たちと、仕切りネットの向こうの卓球部員たちも彼女の姿に目を見張った。
しかし、森閑としたのは暫しの間だけ。
「オーホッホッホッホッホッ! 興味が無いですって!? マリアンそれは解せないですわね!」
高らかな笑いで、静寂を切り裂いたのは昴だった。