母親(その4)
「将来結婚してお前に赤ん坊が出来たらアタシに名前をつけさせな。
これがアタシの養女になる第一条件だ」
唐突に茉莉香はまりあに向かってそう言い放ち指をさした。
「わっ!びっくりしたぁ。何、急に!?」
十年前の記憶の海原へ船を漕ぎ出していたまりあは、茉莉香から突如告げられた『あたしが名付け親になります宣言』に意識を巻き戻され、驚いて両腕を顔面の前にガードするようにクロスさせた。
その様子を見ていた茉莉香はケラケラと笑い満ち、お腹を抱える。
「何勘違いしてんの、違うわよ。
昔、あんたに教えたことあったでしょ?
あんたに『まりあ』って名前をつけたのは、あたしでも政矢さんでもなく赤羽の義祖母だって……」
「う、うん」
まりあは赤面し、十字のガードを解いてコクリと頷いた。
茉莉香は娘の目を見据えていたが、やがて彼女の喉元辺りに目線をずらし、
「子供の時、養母にそう言われたのよ。
大人になって、結婚して赤ちゃんが産まれたら、その子の命名権を自分によこせってね」
「嫌だったの?」
まりあにとって、義祖母に名前をつけてもらったことは嬉しいことこの上ない話であったが、犬猿の仲である母からしてみれば心中は穏やかではなかったかもしれない。すると茉莉香が、
「嫌も何も、あたしは当時九歳だったし、結婚も出産も現実味が無くて遠い御伽話のように聴こえたからね」
と、苦い顔で笑う。
まりあは彼女が赤羽家の養女になる前、何処で何をしていたのか知らない。
そういえば自分の母親の実父、実母は何処にいるのだろうかと不意に思い立ち、「お母さんの本当のお父さんとお母さんはどうしたの?」と尋ねてみた。
すると茉莉香は戸口からまりあへと詰め寄り、ぎゅっと彼女のことを抱きしめ、
「あーっ、遂に訊かれちゃったかー。
あんまりその話題には触れて欲しくなかったんだけどなー」
まりあの左の首筋に顔を埋め、くぐもった声で溜め息混じりにこぼした。
まりあは茉莉香の背中をポンポンと優しく右手で叩き、彼女のポニーテールを左手で撫でると、
「ゴメン、また辛いこと訊いちゃった?
――もしかしてお母さんのお父さんとお母さんって……?」
「あたしの父親は誰だかわかんない。未だに行方不明なんだ。
それと母親は三五年前の震災で死んじゃった」
「えっ?三五年前の震災?
それってまさか!?」
茉莉香がまりあの首筋からゆっくりと頭を上げ娘の顔を見た、少女はその瞳に対して目をみはる。
「そ。そのまさか。
三五年前の二〇一一年三月一一日、私の実母はあの大地震の後に押し寄せて来た大津波にのまれて死んだの……」
「え?それって、お母さんの産まれた日じゃない!
一体どういうこと!?」
東日本大震災。あの日未曾有の被害を東日本一帯にもたらした大災害は、大地震が引き起こした大津波によって、建物も車も人も関係なく、あらゆるものを飲み込んで破壊つくし、その尊き命を奪い、海の沖へと連れ去ってしまった。
あまりに多くの命が失われ、行方不明者、重軽傷者が出た被災地では、神は生き残った者にも絶望の悲しみ以外何も与えず、彼らは打ちひしがれ、折れた心の痛みに耐えきれず、ただ己を曝し泣き続けた。
――その被災地のひとつ、蓮槌町町民体育館は津波で亡くなった人々の遺体置場になっており、累々と並ぶ遺体は続々とその数を増していった。
「薫ぅー、何で……どおしてこんな姿にぃ!?
今年の六月にゃあ結婚式だって喜んでいたのによぉ!!
ジューンブライドだって、あんなにはしゃいでたのによぉ!!」
あの年老いた背中は彼女の父親だろうか?それとも祖父だろうか?
人目も憚らず――いや、憚る人目などこの場所には存在しないかもしれない――号泣している。
「あっちゃん、起きてお母さんよ」
「涼子、温子はもう……」
「あなた何言ってるの、温子は今朝あんなに元気に幼稚園に出かけたじゃない」
「ああ、とても温かい手をしてたな……名前の通りに……でも――」
「……あなた。温子の手が冷たいわ。……それに脈もない。
――あなたーっ!!温子がーっ!!温子がーっ!!死んでるわあぁぁぁぁーっ!!!!」
こちらは三十代前半の夫婦だろうか?愛娘が津波で死んだのを母親がようやく受け入れたらしく溢れる涙に身を沈めている……そんな状況が体育館のあちこちで起こっている中、
「……風妻隊長、見るに堪えませんね……」
黒髪ショートヘアの女性自衛官――もちろん88式鉄帽は被っている――岡林怜奈陸曹長は悲しみ渦巻く町民体育館の中を見渡し、まだ十代の面影が残るその顔を深く曇らせた。
「そうだな岡林。自然災害の猛威の前では我々人間の力はあまりにも小さくか細い。ついさっきまで当たり前にあったものが、あの大津波で何もかも持っていかれてしまった。ここに居る人達……いや被災者全ての人達が今は絶望の暗闇に心を喰われ正気を失っている」
風妻真吾二等陸尉は下がりかけた迷彩縁眼鏡のブリッジをクイッと指先で上げながら傍にいる怜奈に語りかける。彼女は風妻より頭一つ身長が低く、スラリとした体型をしていた。
「彼らの心は完全に折れています。
我々は被災者の心の支えになれるでしょうか?」
「岡林。例え我々自衛隊の支えが一人一人は割り箸のように細くとも、束になって折れた被災者の心を支えなければならない。
それが今我々に出来る精一杯のことなのだと俺は思っている」
「割り箸ですか?普段あんなに訓練で鍛えているのに?」
「物の例えだ」
風妻は目の前の惨劇を見詰めながら答えた。
何時もなら二人共笑顔を見せるタイミングだが、現場の空気がそれを許さない。
蓮槌町町民体育館には遺族が自分の家族や恋人、友人の姿を探しに続々と押し寄せ、探し人と相対する度に悲しみの坩堝は暗く混沌とし、彼らが抱く一縷の望みを飲み込み、容赦なく希望の光を闇間にほふっていった。
風妻と怜奈は再び同隊の仲間と合流し行方不明者の捜索にあたった。
場所は蓮槌海岸。
「――風妻隊長」
無線機を携えていた怜奈が明るい声音で風妻に声をかけた。
「どうした、岡林」
「カー二曹より連絡がありました。
生存者を発見したとのことです」
「場所は?」
「蓮槌海岸の黒松林です」
「よし!俺と岡林は直ちに現場に向かう!
『他の者は引き続き行方不明者の捜索を続行せよ』、とレシバーで送れ!」
「ハッ!」
怜奈は敬礼すると直ちに無線でその旨を伝え、二人は生存者が居るという現場へと向かった。
「生存者というのはこの赤ん坊か、カー?」
風妻と怜奈が現場に到着すると、マリアン=梓絵那=カー二等陸曹が腕の中に小さな裸の赤子を抱いていた。
看護師資格を持つ彼女は、鉄帽から流れる金髪のロングヘアを浜風になびかせている。
そんなマリアンに二人は少し息を切らして駆け寄っていった。
「これでもさっきまで大声で泣いていたんですよ」
敬礼の後そう言ったマリアンの腕の中で赤子は何事もなかったようにスヤスヤ眠っている。
「……見たところ外傷は無いようだな」
「はい。それよりも見て下さい、隊長、岡林曹長」
マリアンは二人に裸の赤子を見せた。
彼女は風妻よりも身長が頭一つ分程高く、よく引き締まった肢体をしていた。
「これは、へその緒、か?長いな」
「はい、この千切れたへその緒を見ると、まるでたった今産まれて来たような感じがします」
「この赤ちゃんが病院から津波にさらわれて来たということ?カー二曹?
母親も津波に襲われてしまったのかしら?」
「それはわかりません、岡林曹長。
でも何はともあれ、この赤ちゃんが無事で何よりです」
マリアンは嬉しそうに赤子の顔を覗き込む。
さっきまで泣いていたという二曹の報告がまるで嘘のように赤子は彼女の豊満な胸の中で寝息を立てていた。
「あ、隊長。女の子ですよ、この赤ちゃん」
「カー、そんな報告はいちいちしなくていい」
風妻は少し照れて赤子から目を逸らした。
「しかし、あの大津波にさらわれてここまで流されて来たとしたら、ただでは済まないはず……それなのに骨折の一本、擦り傷一つの怪我も負っていません」
そんな表情を見せた風妻にマリアンは真面目な顔になって赤子の状態を説明した。
「カー二曹、赤ちゃんの内蔵は大丈夫なの?頭を打ったりとかはしていない?」
「岡林曹長、病院で医者に診てもらわないと詳しいことはわかりませんが、自分の診たところ頭部の骨折はしていないし、恐らく内臓も異常はないと思われます」
「そう、良かった」
怜奈はホッと胸をなでおろす。
「カー、その赤ん坊はそこの黒松の下で発見したのか?」
風妻は浜辺にまばらに生えている二十メートル級の黒松のうちの一本の根元を指差した。
「はい。この黒松の下の砂浜の上に仰向けに寝て、泣いていました」
そうか、と言って風妻は人差し指と親指を顎に持っていき何やら考えている。
「どうしたんです?隊長?」
その仕草を不思議に思ったのか怜奈が問う。
「いや。この赤ん坊が蓮槌病院から津波にのまれて流されて来たとしたらどうやって無事にここまで辿り着いたのかなと思ってな。蓮槌病院からこの海岸まで二キロはある」
「そこはほら、奇跡ってやつじゃないですか隊長?
マスコミがこぞって取り上げるかも!」
怜奈は右手の人差し指を風妻に向け、左手の甲を左腰にあてて彼にウインクする。
「曹長!ここは被災地だぞ不用意な挙動は控えたまえ!」
「そうでした、隊長申し訳ありません!」
怜奈は直立し風妻に敬礼する。
「もしかしたら近所の民家で産まれた子なのかも知れませんね。
この子が助かった理由はわかりませんが、何らかの偶然が重なってこの黒松の根元に引っかかったとしか……」
マリアンが赤子が傍にいたという黒松の幹に近づき、手を触れて言う。
「しかし、津波にのまれたとしたら普通溺れて心配停止のはずだ。
なのにこの赤ん坊は何事もなかったようにここに居る」
腑に落ちない、という感じで腕を組み風妻はマリアンの腕に抱かれた赤子を見詰める。
「確かにこの赤ちゃんが助かった理由は謎ですが、たとえ水中で溺れて心配停止になったとしても子供なら十分以内ならば蘇生できる可能性は高いです」
「その蘇生は誰が行ったんだ曹長?君が現場で発見した時はその赤ん坊は呼吸もしていたし脈もあったんだろう?」
風妻はその赤子が助かった理由が、奇跡という言葉で片付けられるのがどうも納得いかなかった、ついさっき起こった神の御加護をも飲み込む理不尽な自然の猛威を見せ付けられてからは……
そんな上官にマリアンは青い瞳で見返し、ズイッと顔を近づけた。
「隊長はこの子が死ぬのが当たり前のようにお話を進めていますけど、一つの人命が助かったことが嬉しくはないんですか?」
ドキンッ、とする台詞がマリアンの口から吐かれた。
その言葉に風妻は半ば仰け反り、両手を前に出して何度も交差させ首を振った。
「違う違う。ただこの町に来て沢山の遺体を見ていると人の死があまりにも身近に……当然に思えてきてな、他意は無いんだ」
風妻の慌てようにマリアンはクスリと微笑み、
「本当に隊長は何でも論理的に解決しないと気が済まないんですから……。
隊長の辞書には奇跡とか偶然とかの文字はないんですか?」
「もちろんある。だがこの黒松の根元に赤ん坊が引っかかって本当に助かるものなのか?」
一瞬で東日本の沿岸に暮らす人々の命を万単位で奪ったあの大津波に、風妻は気まぐれにしても、赤子一人の命をこの蓮槌の浜辺に残していくとは思えなかったのだ。あの時、あの瞬間、太平洋の海は正に無慈悲の断崖となってこの町を襲った。
奇跡など入る隙間など無い程に。
「そういえば隊長、ここらへん一帯は防風林のはずなのに黒松の本数が異常に少ないですね……これは一体?」
怜奈が辺りを見渡して風妻に問う。
「恐らく大津波が根こそぎ海へ持って行ったんだろう」
風妻はクイッと迷彩縁眼鏡のブリッジを右手の人差し指で上げて、赤子を発見したという黒松の木を見上げた。
「――!!岡林!カー!黒松の木の枝に人が引っかかっているぞ!」
樹高二十メートルほどの黒松の中腹に、成人女性らしき姿が……裸体で枝に腹部を軸に引っかかって垂れ下がっているのが見える。
「この子の母親でしょうか?」
赤子を抱きながら心配そうに見上げるマリアン。
「わからん。クソ、なんで今まで気がつかなかったんだ!」
「申し訳ありません隊長。
赤ちゃんの無事を確認した嬉しさに気をとらわれていました」
「過ぎたことは仕方ないわカー二曹。
私や風妻二尉も気づかなかったんだから。
それよりあの人を下におろさないと……隊長、指示を――」
「クソ!俺たちがやって来た方角からは死角になって見えなかった。
――消防隊に協力を要請してはしご車を現場まで持って来てもらうか?岡林?」
「隊長。この被災状況でははしご車を要請するのは困難かと……大体にして大型車であるはしご車が砂浜を走れるとは思えません」
「クソ!航空隊にヘリを頼もうにもヘリコプターは不足しているし……、何か良い手立ては――」
風妻の悪い癖だ。彼は切羽詰まると言葉の頭にクソをつけて親指の爪を噛む。
そして大抵そんな時は大したアイデアはうかばないし、ろくな命令を下さない。
そんな風妻を見てマリアンは赤子をを大事に抱きながらそっと右手を挙げた。
「隊長。意見具申宜しいでしょうか?」