母親(その3)
「待ってお母さん、話があるの」
時間も午前零時を回り、明日が今日になった所で茉莉香も悪いと思ったのか、
「じゃ、まりあ、おやすみ」
と、軽く手を振って、部屋の扉へすたすたと歩いて行った。
スタイルが抜群の茉莉香は、日頃ミニトランポリンの他にモデルウォーキングを心掛けている。
だから、その歩き方たるや颯爽としたもので、あっと言う間に戸口に立った母親にまりあは慌てて声をかけた。
「何、まりあ、話って?」
茉莉香の右手は既にドアノブにかけられていた。
その姿勢のまま笑顔を纏った顔が娘の方に向けられる。
「うん。その……あのね」
珍しくまりあは、茉莉香に対して言いづらそうに口ごもっていた。
それを見て茉莉香は、
「あっ、わかった。寮生活での賃上げ要求でしょ。ダメよ我がまま言っちゃ」
茉莉香は右手のノブを握ったまま、左の人差し指でまりあをビシッと指差した。
「ち、違うよ。あのね、お母さん……やっぱり、お義祖母ちゃんと仲直り出来ない?」
まりあは、恐る恐る茉莉香に問う――。
「……悪いけど、その話はしないで頂戴……」
茉莉香はドアノブから手を放し、身体全体をまりあに向けると、昏い声でそう言った。
何時も陽気な茉莉香は、赤羽朱里の話題になると決まって表情が曇る。
まりあは昔、母親と義祖母との間に何があったのか知らされていない。
茉莉香自身、己の舌に乗せるのも憚れるという様子だった。
「う、うん。ゴメン……」
あの竹城茉莉香(旧姓、赤羽茉莉香)が嫌悪する程の相手、赤羽朱里。
しかしまりあは、その義祖母のことが嫌いになれなかった。
それはまりあが小さい頃、朱里が桜盛市の楽器店で衝動買いして来たグランドピアノを、まりあを隣にすわらせて、ぎこちない手つきで、きらきら星を弾いて見せた事や。
誕生日になると手編みのカーディガンやセーターをプレゼントしてくれた事。
学校帰りに親友の鈴原マキと赤羽邸に遊びに行っては、朱里に寿司職人の出張サービスを頼んでもらい大トロを心行くまで頬張った事。
毎年お年玉を奮発してくれた事や、お小遣いが足りない時、茉莉香に内緒でヘルプして貰ったからではなく(ちょっとはあるかもしれないが…)、少女の存在を支え現す大黒の柱を義祖母が与えてくれていた事実を、普段養母の事を語りたからない母親の口から聞いたからだった。
――それは、まりあが五歳の誕生日を迎えた夜。
暗い八丈の居間の中央に置かれた木製テーブルの上で、仄かに浮かび上がるバースデーケーキと、その四角いテーブルを挟んで向かい合い座る母と息子、娘の姿。
可愛い白猫のキャラクターの顔に象られたそのケーキには、五本の祝火が立っている。
まりあは、すうぅぅぅぅっ、と空気を胸一杯に吸い込むと、ゆらゆら揺らめく幻想的な炎を勢い良く、ふうぅぅぅぅっ、と頬を膨らませて吹き消して回った。
途端に闇に包まれる部屋――
「トウくん、ちょっとゴメンね」
茉莉香は膝に抱っこした二歳の十矢を気遣いながら、リモコンを蛍光灯に向けるとスイッチをONにする。
丸型LED蛍光灯が室内を明るく照らすと、彼女の膝から十矢を、よっこいしょと前に立たせて、右隣に座らせる。
そして満面の笑みでクラッカーを三つ手に持つと、
「ハッピィバースデーッ!まりあ~!」
茉莉香は娘に祝福の一声を発し、続けて、ぱあんっ!ぱあんっ!ぱあんっ!と、部屋に三連の祝砲を鳴り響かせた。
天井へ向け紐を引いた三つのクラッカー。
小さな円錐形の紙容器から沢山の花弁が飛び散り、フラワーシャワーとなって降り注ぐ。
十矢は目の前で弾けた炸裂音に驚き、身を縮こませていたが、ひらひらと舞い落ちる色とりどりの花吹雪に興味を示し、う~う~、と両手で蚊を叩くように挟み、掴んで口に運ぶ。
「あっ、トウヤたべちゃダメ!」
姉のまりあが慌てて止めようとする。
「大丈夫よ、これ食用だから」
テーブルにぶつかって、後ろに転びそうになる息子を支えながら茉莉香が教えた。
「おかあさんショクヨーってなに?」
「んー。食べてもお腹痛くなりませんよーっ、て事。だからケーキにも、このクラッカーの花弁が一杯付いちゃたけど問題ナッシング~♪
そして、まりあ~五歳のお誕生日おめでとぉー、わあぁぁぁぁ☆パチパチパチパチパチー!! はい、トウくんも拍手してー!」
茉莉香は、キュートな白猫ケーキに向けて、一生懸命伸ばしている息子の柔らかな小さい両手を自分の手に取り、まりあに向けてパチパチパチパチ、と拍手させ、再度祝福した。
「おかあさん、どうもありがとぉ~。トウヤも、どうもありがとぉ~」
まりあは二人の祝福に、にこやかに満面の笑みで応える。
「さあ~、お待ちかねのプレゼントよ」
茉莉香は十矢を再び自分の膝に座らせ、左手で息子のお腹を押さえながら、テーブルの下に置いてあるファンシーな袋とリボンでラッピングされた包みを取り出そうとした。
すると――
「おかあさん、ちょっとまって」
まりあがその行動を遮り、ちょこんと座っていた座布団を右側へ――壁際に据えられた食器棚の方に――寄せると、そのまま立ち上がり、ショートの白いフレアスカートの皺を両手で伸ばし、赤羽朱里が編んだ白いサマーセーターの袖口が手の甲まで掛かっているのを気にしながら佇まいを正す。
その姿は可憐に咲く一輪の白百合。
幼女はテーブルの反対側に座っている母親の顔を見詰める。
「どうしたの、まりあ?」
急に改まった娘の態度に、茉莉香もプレゼントから手を放し、十矢を膝に抱いたまま自然と姿勢を正した。
その様子を確認したまりあは――
「おかあさん、どうもありがとぉ~」
お行儀よく両手を前に添えてペコッと頭を下げ、お礼をした。
早くケーキを食べたそうに両手を伸ばす十矢を制止しながら茉莉香は、
「何言ってるの? お楽しみのプレゼントは、まだ、あげてないでしょ。おかしな子ねぇ」
娘の意表をついた行動に、彼女は不思議そうな表情を浮かべ、小首を傾げる。
「ちがうの、きょう、ようちえんのせんせ~にゆわれたの。
『そう、きょうは、まりあちゃんのおたんじょおびなの。
おめでとぉ~。
せいぼさまと、おんなじステキなおなまえをつけてもらえて、よかったわねぇ。
おうちで、おたんじょおびかいするの。
そう、じゃあそのときに、おとうさんと、おかあさんに、「すてきなおなまえをつけてくれて、ありがとぉ~」って、おれいをゆうんですよ~』って。
そう、ゆわれたの。
おとうさんは、おしごとでかえってこれないから……、だから、おかあさんにおれいをゆうの。
せいぼさまとおんなじステキなおなまえを、まりあにつけてくれてありがとぉ~、おか~さんっ」
またペコッと頭をさげる幼い娘。
恐らく聖母さまという言葉の意味もわかってはいないだろう。
顔をあげ、再び母親に向けられる無垢な笑顔。
だが茉莉香は、天使がたたえる満面の笑みの前に何故か沈黙し、顔に暗い影を落とした。
「……おかあさん?」
敏感に母親の異変に気づいたまりあの顔から、陽の光がみるみる失せる。
眉間と下瞼に皺を寄せた茉莉香の目は据わっていた。
とても堅気とは思えないほど荒んだ瞳。
まるでスラム街の路地裏で、渇き飢え、明日をも知れない世界で自分が今日どう生きるか――、そんな餓狼が纏う荒れたオーラを眼に集め、眼前を見据えている。
茉莉香は、忘却の彼方からやって来る走馬灯を自分の奥歯で何度も噛み砕き、石臼の様に磨り潰す。
精神を怒気の闇に囚われた彼女は、真一文字結んだ唇を震わせていた。
「お……おかあさん、どうしたの?」
視線の矛先は、不安げに問うまりあの顔を貫いて、遥か彼方の時空を睨んでる様にも見えた。
何時も明るく、どんな辛い事もケラケラと笑い飛ばしていた竹城茉莉香が実の娘から、素敵な名前を付けてくれてありがとう、と、お礼を言われた途端、ハッピーで満たされていた空間を突然ひっくり返したのだ。
「ねえ、おかあさんっ!? おかあさんってば!?」
まりあはテーブルに両手をついて身を乗りだし、茉莉香の顔を見詰め、呼び叫ぶ。
十矢は母親の手をスルリと離れ、目の前のケーキに手を伸ばすと、グシュッと鷲掴みにして小さな口に頬張っている。
だが、それを咎める余裕は幼女にはない。
まりあは、眼前に赤銅の刃物の尖端を突き付けられた感覚に陥り、母に呼び掛ける事さえできなくなっていた。
「あ……ああ……」
腰の抜けたまりあは、ストンッとカーペットにヘタリ込んだ。
彼女は確かに視覚し、感じたのだ。
茉莉香の黒き瞳の奧に、赤黒く渦巻く不動明王の如き憤怒の炎と揺らめく憎悪の影、そして容赦なく放射される熱風を、幼き青い瞳と白い肌で――。
「ひっぐ……ふっぐ。
うぇ~ん、こわいよぉぉぉ~っ!!
おがあざんの、がお、こわいよぉぉぉ~っっ!!」
生まれて初めて目にする母の豹変にまりあは戦慄し、声を張り上げて泣いた。
わんわんと泣き叫ぶ、幼い娘の悲痛な声に茉莉香はハッと我に帰った。
「もうニンジンのござないがらぁぁぁ!!
ひっぐ。
ピーマンもセロリもすぎになるがらぁぁぁっ!!
ひっぐ。
おがあざんのぎらいなプリピュアのボールもすてるがらぁぁぁっっ!!
だがら――まりあのごど、ぎらいにならないでよぉぉぉぉーっっ!!!!」
突然号泣しだした姉の姿に、口と両手を生クリームとスポンジだらけにしていた十矢も釣られるように大泣きし始め、幼い姉弟の大合唱が部屋中にコダマした。
「ゴメン。ゴメンねぇ~まりあ。お母さんどうかしてたねぇ。
ほらほら可愛いお顔が台無しよ?
はい、チーンして」
鬼子母神が鬼面を外し柔和な表情を覗かせる。
泣きじゃくるまりあの小さな頭に手を置いて優しく撫でた後、茉莉香は涙と鼻水でクシャクシャになった幼女の顔をティッシュで何度も拭った。
まりあの小さな肩はまだ嗚咽が止まらない。
「あ~あ、トウくんもこんなにお口とお手て汚しちゃって。
もう食いしん坊さんねぇ」
口内の生クリームとスポンジを公開しながら咽び泣く息子の顔と手をティッシュペーパーで丹念に拭き取り、消毒用のウェットティッシュを数枚取り出し何度も拭いて綺麗にする。
そして――
「まりあ、トウくん、こっちにおいで」
茉莉香はカーペットに膝を折ると、まだ肩を震わせている二人の子供を招き寄せ、そのふくよかな胸にそっと抱きしめた。
まりあと十矢はピンクのジャージ越しの茉莉香の乳房に顔を埋める。
柔らかく暖かくほのかに甘い母の身体――。
その瞬間、岩場の様にゴツゴツとしていた部屋の空気は百花の園へと一変した。
「おかあさんだぁぁぁ~っ!!
いつものやさしい、おかあさんだぁぁぁ~っ!!」
「だぁあぁぁ~っ!!」
子供達は嬉しくなって、弾力ある桃色の峰山に深く顔を埋めた。
「ん~っ? 何だぁ~二人ともっ。
まぁ~だお母さんのおっぱいが恋しいのかぁ?
この甘えん坊さん共めっ!」
茉莉香は張りのある大ぶりのマシュマロプリンに、ぎゅぅぅぅっと娘、息子の顔を押し付ける。
「ぅう~っ、おかあはん、くうひいおぉぉ~!」
「ぉおお~! おぉぉぉ…」
まりあと十矢は、彼女の腕と胸に万力よろしく挟まれ、モガモガしながら手足をバタつかせた。
「あっははっ、ゴメンゴメン」
茉莉香は両腕の力を緩める。
子供達は、ぷは~っと母親の胸から顔を剥がすと深く深呼吸をした。
少女は顔を上げ、母の黒瞳を覗いた。
円らな黒真珠の柔らかな光沢が彼女の心に安らぎを与える。
そこには赤黒の恐ろしい熱炎の刃も、憎しみの影も存在しなかった。
茉莉香も泣き腫らしたまりあの大きな青瞳を見詰めている。
互いの目鏡に映る安堵の笑みと日輪の笑顔。
少女の澄みきった二つの深き蒼穹は、母親の表情が徐々に太陽から穏やかな月明かりへ変貌するのを仰いでいた。
「まるで、おつきさまのヒカリをあびてるみたい……」
まりあは、さっきまで濡れていた長い睫毛を閉じて母の胸に耳を当てる……温かい生命のリズムが幼い彼女の意識を桃源のエントランスまで誘う――。
「……まりあ……アナタに名を付けてくれた人は、……赤羽のお義祖母ちゃんなのよ」
「――えっ!!?」
衝撃の真実がピンクのルージュから紡がれた瞬間、ほんのり甘い桃花の妖精と一緒に戯れていた少女の意識は、あっという間に現実の世界へ引き戻された。