引越し
「これが最後の荷物ですね?」
二階の最初の部屋から大きめのみかん箱タイプのダンボールを抱えて、トントンと階段を下りてきた二十代半ばと思しき男性は、浅黒い笑顔からこぼれた白い歯で一階の玄関ホールに立っている白いショートワンピースに青いカーディガンを羽織った少女、竹城まりあに問いかけた。
空は薄曇りで、階段の踊り場の窓からは頼りない光が申し訳なさそうに差し込んでいる。
障害になるほど暗いわけではなかったが、まりあは念のため階段と玄関ホールの照明灯のスイッチをONにしていた。
彼女に声をかけた青年の左耳朶には、シルバーのクロスピアスが光っている。
はきはきした彼の声音に、竹城まりあは身に着けているワンピースに負けないほどのきめ細やかな白い肌を、立ち位置はそのままに、下げた両腕を身体の前へ――右手に左手を重ねたまま上半身を右回りに捻って、玄関の出入口から麻黒肌の青年がいる階段の方へ顔を向けた。
「!」
まりあは思わず驚嘆し頬を赤らめた。
青年が持っているそのダンボール箱の前面には、『下着類』と、黒いマジックペンで太く大きめに書いてあったからだ。
(――何でこんなに大々的に、『下着類』なんて書くのよ! お母さんの馬鹿!!)
彼女は心の中で叫びつつ、精一杯平常心を装って、大理石から生みだされた女神像の両手をお淑やかに前で揃えたまま、改めて身体全体を麻黒肌の青年へと転向した。
スカートの裾がフワッと広がって白い花が咲き、白いサイハイソックスとの間の絶対領域が魅惑のゾーンを形成する。ウルトラマリンのリボンが編み込まれた、太股まで届く、漆黒の三つ編みのおさげ髪がその動きに合わせて弧を描いた。
まりあと向かい合ったその青年は、正面にデフォルメされたコアラのワッペンが縫い付けられたブルーのキャップを被り、トップスはブルーのポロシャツにボトムスはシルバーのズボン、シューズは室内用に白いスニーカータイプの安全靴を履いている。
まりあの前に揃え下げられた手は、自然と拳に変わっていた。
笑顔の仮面を崩さないように、はい、それで最後です。とにこやかに答える。
それに対して麻黒肌の青年は、そうですか、と爽やかに白い歯で相槌を打ち、すたすたと彼女の横を通って玄関ホールの上がり框の手前で止まり、石タイルの敷かれた土間で、黒いスニーカータイプの安全靴を履いて待機していた同僚である(同じユニフォーム姿だから当然だが……)元ラガーマン風の青年に、じゃあこれ宜しくな、と手渡していた。
まりあの視界は立っているその場を軸に、自然と青年たちの行動を追っていく。
麻黒肌の青年が彼女の側を通った後、フルーティーなダージリンティーの香りがほのかな汗の匂いと共に彼女の鼻腔をかすめた。
この青年の清々しい笑顔に合った香水だな、とまりあは思った。
一方、元ラガーマン風の青年からは香水の匂いはしなかった。
彼女が、この男性から感じ取ったのは、彼がその頑丈そうな顎で噛んでいるチューインガムの香り。
その匂いは、青年がかつて仲間たちとスクラムを組み、走りながらスクリューパスをし、敵陣深く駆け込み仲間からパスを受け、繰り返しライバルにタックルをくらい、何度転倒させられても立ち上がり、群がる敵人を押しのけ躱して、敵地のインゴールへボールをトライしたであろう、芝生のグラウンドの薫りを連想させた。
チラッと、元ラガーマン風の青年の顔を窺う……色黒、というわけではない、ごく平均的な日本人の肌色。
――しかし、異様な形のモノがまりあの目に飛び込んできた。
ギョウザのように変形した耳。それを見た彼女は心の中で呟く、
(ああ、この人やっぱりラグビーやってたんだ。レスリング……じゃないよね――。あっ、こっちを向いた!)
まりあの視線を感じたのか、元ラガーマン風の青年はジロリッと、細く鋭い眼光を彼女へ向けた。
(目が合ってしまった!)
彼女は慌てて俯く。すると、その元ラガーマン風の青年に引き渡された、ダンボールのガムテープでとめられた箱の上面が、まりあの眼中に飛び込んできた。
彼女は大きい目を更に見開き、今度は顔一面を紅色に染め上げた。
元ラガーマン風の青年は無言で頷くと、受け取った荷物を駆け足で玄関の外へ持っていき、駐車場を通って門柱を抜け、竹城家の化粧ブロック塀の側に駐めてある、2トンショートトラックのコンテナへと運んで行く。
まりあはその青く広い背中が、クリアホワイトの大理石の垣の向こう側にまわって、彼女が立っている玄関の壁の陰に完全に消えるのを見送った後、口元をへの字に歪めた。
奥歯をギリリッと噛みしめて、身体の脇に下げられた両手で、スカートの裾をぎゅぅ~っと握りしめる。耳まで真っ赤になっていた。
(う、上にも大きく『下着類』って書いてあった――。お母さん、何で態々こんな事するのよー。もうっ、恥ずかしいじゃない!)
思春期真っ最中の少女にとって、耐えがたい恥辱である。
(うぅっ、まるで下着姿のわたしが引越し屋さんに抱えられ運ばれて、そのままトラックのコンテナに積み込まれている気分になる……。いやいや、そんな妄想はおいといて、一体彼らはどう思いながら、『下着類』と大きく書かれたあの箱を持ち運んでいるのだろうか? やはり内心、このダンボールのガムテープを剥がして箱を開け、わたしのショーツの一枚でも御守りに頂きたい、などと、不届きでエッチな事を考えているのだろうか? もし引越し先に着いたわたしの荷物から、下着の枚数が減っていたらお母さんの責任だ!)
青年たちの頭の中を、自分勝手にピンク色に塗りたくり、優しげで大人しそうな容貌とは裏腹に、まりあのハートは怒髪天の核融合炉を得て、太陽の上層大気に突出した紅炎の如く燃え盛っていた。
サラマンダーの化身となった思考は、彼女の母親を中心に実家とその周辺……、いや団地一帯を自然災害よろしく、太陽フレアの如きブレスで焼き尽くさんとばかりに猛り狂う。
もし、暴走したまりあの幻想世界に、彼女の認識対象区域が引きずり込まれていたら、この少女が三歳の頃から住んでいた光陽ヶ丘団地は、消し炭になっていたかもしれない。
「――では、我々はこれで失礼いたします。お荷物の輸送先は、私立ファレノプシス女学院高等部の玉兎蘭寮でしたね?」
「……ブツブツ、…………ブツブツ、…………」
「……。――――?、??」
質問した浅黒肌の青年は、余りにも少女が無反応(というか、なんかブツブツ言っている――)だったので、訝しげに首を傾げると、彼女の顔を覗き込みながら、竹城さん? あのー……、すみません……、と白い歯をこぼした。
耳元に聞こえてきた鮮明な声音と、間近にある浅黒い笑顔に、まりあはハッと驚いて我に返った。
ニッ、という感じに、憎めないえくぼを頬に作った青年は、心、ここにあらずだった少女が気を取り戻したのを覚ると、彼女の鼻先に近づけていた自分の顔を、後方へスッと引いて直立姿勢に戻した。
シルバーのクロスピアスが、ティンクル、ティンクル、リトルスターを歌っている。
(ああ、びっくりした――)
まりあは、首から下の血が全部頭に上ってくる感覚を必死に抑え、何とか平静さを保っていた。しかし心臓は、どくんっどくんっ、と激しく動揺している。
弟を除けば、若い男性の顔を至近距離で見るなど、彼女にとって滅多にない事だ。
(あのまま怒りの炎で、心を盲目にやつしていたら、唇が危なかったかもしれない)
そう考え出したとたん、静まりかけていた血液が再沸騰し、足元から昇龍の如く翔け上がる。
(ああっ、もう! この火照った身体に冷水を浴びせて、湧き出る奇妙な気持ちの佇まいを正してやりたい!)
頭の中で自分の頭を抱え、髪の毛をクシャクシャにし、きょどりながらもサファイアの虹彩を眼前へと向ける。
目の前には、荷物を運び終えた短髪の二人の青年が、被っていたキャップを頭から脱いで、右手に持って立っていた。
麻黒肌の青年は、室内用の白いスニーカータイプの安全靴から、MIZUMOのランニングシューズに履き替えている。
玄関の上がり框を挟んで、土間に直立している青年たちの背は、玄関ホールの上に立っている少女より頭半分ほど高い。
どうやら彼らは、日本人男性の平均よりも身長があるらしい。
「――あ、えっと……ごめんなさい。ちょっと考え事をしてまして……。もう一度仰って頂けますか?」
現在は、生産がストップされている? マクドタルトのゼロ円スマイルを、カウンター越しのサービス精神旺盛な、女性店員さながら演じてみた。……笑顔がヒクついている。
すると、麻黒肌の青年は、金色に染めたオシャレなショートヘアを左手でさらりと後方に撫で、そうですか、と爽やかに白い歯を覗かせた。
左耳の南十字星が瞬く。
「えっと――。トラックに積んだお荷物は全て、沢咲町にある、私立ファレノプシス女学院高等部の玉兎蘭寮に輸送して宜しいですね」
嫌な顔ひとつせず、再び確認してきた。
彼の左隣に目をやると、元ラガーマン風の青年は、まだチューインガムをモグモグ噛んでいる。口内に溢れた唾液を飲み込んだのか、喉仏が上下した。
顔幅と変わらない首の太さに、まりあは改めて心の中で驚嘆する。
そしてその青年の髪型は、正にラガーマンといった風貌だった。
頭頂部から後頭部にかけて、髪が短いのは確かだが、襟足は首筋まで伸びており、更に両側頭部が極端に短く刈られている。
顎の動きに連動して、こめかみが動いている。相も変わらず無言で無表情だ。
だが異常なほど背筋がしゃんと伸びていて、まりあは彼のことをまるで、訓練された自衛隊員みたいだな、と思った。
それに、分厚い胸板や逆三角形の巌のような背筋。鋭利な刃物も通さない程鍛え上げられた腹筋。鋼鉄のパワーショベルを連想させるガッシリとした腕。キュッと引き締まった臀部。丸太のような太腿――。
(どれをとっても、麻黒さんより1.5倍位はありそうだ)
そう思いつつ、視界の位置焦点を正面の青年に合わせ、即座に身体の各部位を相手に気取られぬようサーッと観察。
(~~~~~~~~。……かと言って、浅黒さんが貧弱に見えるかといえば、そう言うわけでも無いし。……うん、彼はソフトマッチョ系だ)
それにこの青年方が、人を引っ張っていくオーラがあるな、とまりあは感じていた。
「はい、玉兎蘭寮1号棟の1203号室です。宜しくお願いします」
まりあはそう言って、彼らに向かってお辞儀をした。
彼女が二拍ほどおいて、折った腰を元に戻したのを見届けた浅黒肌の青年は、
「では、我々はこれで失礼いたします」
白い歯を輝かせ、彼女に一礼する。元ラガーマン風の青年も、ほぼ同時に頭を下げた。
その後、二人は再び背筋を正し、可愛いコアラのワッペンが付いた青いキャップを被り直して踵を返し、玄関の外へ出た。
浅黒肌の青年は戸を閉めるためまりあの方を向くと、右手に持った、焦茶色地に青くSNACKERSとプリントされたチョコバーの袋をチラッと彼女に見せ、それを持ったまま指先でキャップのつばを押さえて会釈をしながら引き戸を静かに閉じた。
「……いつの間に、元ラガーマンさんから受け取ってたんだろう? わたしが火竜にメタモルフォーゼしてた時かな?」
彼らは小走りに、引越しの荷物を載せた2トンショートトラックへ駆けていく。
元ラガーマン風の青年は結局一言も喋らなかった。
「ああいう人をむっつりスケベって言うのかな?」
まりあは、最後まで無言だった青年の無表情フェイスが、下着類と書かれたダンボール箱を閉じているガムテープを剥がして、ショーツやブラジャー、キャミソールを手にした途端、みるみるうちに卑猥な表情になり、顔に押し当てて、すんすん匂いを嗅いでいる姿を想像し――――、ぶんぶんと頭を横に振る。
「大丈夫。あの人たちはプロだもの、例えそういう思考が働いたとしても、実行に移すわけがない……、よね? セキュアな人たちだって、信じているからね――」
少女はその場からいなくなった青年たちに向かってそう呟くと、身体の正面を玄関の引き戸から二階に続く階段へと踵を返した。