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赤光

 少女は崖下を見た。


 強い風が、彼女の白い肌を切り裂くように吹き抜け、水しぶきを巻き上げ、潮の匂いが鼻腔を突く。

 その風は、ウルトラマリンのリボンで彩られた太股まで届く一本の三つ編みの黒いおさげ髪と、セーラー服の襟とスカーフ、白いサイハイソックスを穿いた脚を飾るプリーツスカートをはためかせている。


 轟々と鳴り響く音と共に波が岩に打ち付け、砕けて、白い泡が渦となり今にも吸い込まれそうな錯覚に陥る。


 黒い虚無のとばりに包まれていた、彼女の大きな青瞳(せいどう)は、蜘蛛の糸に掛かった玉露のようにわずかな光を取り戻し、改めて自分が高い崖に立っているのだと実感して、思わず身をたじろがせた。


 ハッとなって、辺りを見渡す。

 眼下に広がる世界は、右も左も遠見する全てが大規模な断崖絶壁。

 二百メートル級の高さの丘陵が、波食の作用を受け、鋸歯状に形成されて一帯を構成していた。


 絶崖に立つ少女は、固唾を呑んだ。

 胸には、白い肌着を着た赤ん坊を抱いている。

 小さく華奢な、正直、可憐といって良い彼女の風貌には、そぐわないシチュエーションだった。


 少女は、腕の中の赤ん坊に悲しみの眼差しを向けた。

 小さなその顔は、夕日を浴びてオレンジ色に染まっていた。

 この状況にも関わらず、スヤスヤと寝息をたてている。

 日向に干した布団のように、ぬくぬくと温かく、それでいてズッシリと命の重さを感じさせる、脈打つ鼓動。


 彼女は腕の中に抱く我が子の、ピンクの薔薇の蕾のような唇にそっと口付けをした。

 イチゴミルクのような甘い香りが、鉄の決意を蕩けさせる。


(どうして、こんな事になったんだろう……)


 赤ん坊との接吻を終えた少女はそう呟くと、自分の下唇をキュッと噛み締めた。

 薄紅の唇から赤い血が滲んだ。

 鉄の味が、口の中に広がってゆく……。


(わたしはただ普通の幸せが欲しかった……。大好なあの人と、この子と、慎ましやかな暮らしが出来れば、それでよかった……)


 しかし、世界は彼女にそれを許さなかった。



『我思う、ゆえに我あり』


 突如、脳裏に浮かんだ有名な命題。


『なぜ、自分は今ここに居るのか?

 そう考え、確かな疑いをもつ事自体が己の存在の証明である……』


(――――確か……そんな感じの意味だった……)


 と、少女は朧げな記憶を掘り起こす。


(そして、『世界は機械仕掛けのようなもので、機械式歯車時計のネジをひとたび巻けば、後は自動で動くように、神がいったん世界のネジを巻いて動かしてしまえば、神そのものが要らなくなる』という考えを提唱した人物……)


 ――ルネ・デカルト――


「……こんな時に、そんな偉人の事など考えるなんて……。彼は、表向き敬虔なカトリック信者を装って、その実、無神論者だったという話を何かで読んだことがある……」


 嘘か真かわからないが、少女は以前、携帯端末でアクセスした亊があるウェブページに、そんな内容の文章が綴られていたのを思い出した。


「……そうであるならば当然、わたしも、この子も、この世界は必要としないでしょう……。自分たちが居ない方が、この世界に対して波風を立てずに済むならば、わたしたちはこの世界から潔く立ち去ろう……」


 そう……。この宿命から逃れるためには、自分の子供も道連れにしなければならない。

 母親として、それが不憫でならなかった。


「…………ごめんね――――」


 なにも知らない、赤子の柔らかな()()に、瞼を閉じて自分の頬を優しく擦り寄せる。

 ぷくぷくした、マシュマロのような頬っぺたに触れるだけで、母性が熱い源泉の如く湧き出てくる。


「ああ。全知全能なる天主よ、赦してください!!! わたしは最も罪深い行いをしようとしています!!! 天主あなたはお怒りになり、きっとわたしは地獄へ堕ちるでしょう!!! ですが、この子に罪はありません!!! どうか再び天主(あなた)の右へ座らせてあげてください!!!”


 少女の声が、神に届いたかどうかはわからない。だが、我が子の本当(じつ)()に向かって、母親として、そう叫ばずにはいられなかったのだろう。彼女は天を仰ぎ、強風を穿つ咆哮を放った。


 なぜ、彼女たちはこのような十字架を背負わされて、この世界に存在することになったのか?


 それは、世界の人たちが口にする『神の奇蹟』


 そのようなものに、彼女が晒されなければ、こんな事にはならなかったはずなのだ。



“我()思う、ゆえに我あり……”


 この世から解放されることを望んでいる、自我を意識しながら少女は、


『わたしに、奇蹟など起こらなければ良かったのに……。そうすれば、自分は今でも、平穏な毎日を送ることが出来ていたのに……』


 腕の中の我が子を見詰め、そうも考えるのだった。


 しかし少女の運命は、天主の掌の上に確かに存在した。天主(かれ)の子供を産むという、決定事項を携えて……。


(自分がこの世界に居ることで、人々に神の奇蹟の存在を証明してしまった――――)


 それは彼女にとって、まったくもって皮肉な結果であった。

 

 神はその見えざる手で、この少女の機械式歯車時計に付いている奇蹟のネジを巻いて、ご自身の御業(みわざ)顛末(てんまつ)を天上の教会から御覧になりたかったのだろうか……?


 彼女はそんな事ひとつも望んでいなかったのに……。



 気がつけば強風は止み、辺りの風景は創造主の絵筆によって、夕凪、という題名の情景画に変貌を遂げていた。

 水平線の彼方には、荘厳な黄昏がこの世のものとは思えない美しさを魅せている。

 少女には、それが黄金の翼を広げた天使のように見えた。


「ああ、この子が天に召されるには良い日だ……」


 胸の中の赤ん坊は、眠りながら自分の親指を吸っている。


(夢の中で、母親(わたし)のおっぱいを飲んでいるのだろうか?)


 そう思うと、熱いものが込み上げてくる。

 彼女はいつの間にか一筋の涙を流していた。

 残光に照らされた露は頬を伝い、雫となって優しい輝きを放つ。



 ――――そして。


 少女は我が子を抱く腕にぎゅっと力を込めると、金色(こんじき)の光りを目に焼き付けるように真正面を向き、断崖の先の虚空へと歩み始めた……。





 ()()は、赤光(しゃっこう)へとその姿を染め上げた。

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