第九話 前世の約束と現世の答え
クラウス王太子は、管理局の扉を開けた瞬間、足を止めたらしい。
その理由を、私はよく知っている。
断罪から四十二日。
王太子の非公式視察に私は立ち会えなかった。外部技師には権限がない。
だがその夜、エルヴィンが詳細を伝えに来た。
「管理局の執務室は別物だった。調整器具は散乱、報告書の棚は半分空、保管庫には未整理の機材が山積みだ」
「王太子殿下は何と言いましたか」
「何も。黙って見て回って、黙って出て行った」
「それは良い兆候ですか」
「あの人は怒ると黙るタイプだ」
その後、すべての書類が正式に王太子の手に渡った。
二日間の沈黙があった。
「予想通りだ」とエルヴィンは言い、「想定内よ」とマルグリットは言った。
三日目。王宮から使者が来た。
リアナ・フェルトベルクに、王太子の私室への出頭を命じる、と。
◇
王太子の私室に通される。
クラウス王太子は窓辺に立っていた。紫色のマント、金の肩章。
「座ってくれ」
机の上にすべての書類が広がっていた。
「これらの書類に目を通した。すべて事実か」
「はい。検証可能な形で記録してあります」
長い沈黙。
「私はあなたを断罪した。セレナの証言を信じ、弁明の機会を設けなかった」
「はい」
「なぜ、あの場で反論しなかった」
「反論が通る状況ではありませんでした」
「だから四十二日も——ひとりで」
「ひとりではありませんでした。助けてくれた人たちがいます」
王太子は目を伏せた。
「なぜ感情的にならなかった。恨まなかったのか」
「恨む時間があれば記録を取る方を選びます。感情で動いても何も変わりません」
前の人生で学んだことだ。
光る板の前に座って、深夜のオフィスで、同じことを思い知った。
不正な人事評価。握り潰された報告書。証拠を残さなかったから何も証明できなかった。
だから今度は泣かなかった。怒らなかった。代わりに記録を取った。
「リッチモンド公爵とセレナへの処分は、正式な調査の後に決定する」
「はい」
「あなたの断罪は——撤回する。名誉の回復とすべての権限の返還を近日中に公布する」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ。リアナ、管理局に戻る気はあるか」
「少し考えさせてください」
王太子は窓の外を見た。
「もう一つだけ。セレナが最後の反論を準備している。公開の場であなたの証拠を全面否定するつもりだと」
「予想しています」
「大広間で貴族たちの前でセレナと対峙することになる。それでも構わないか」
「構いません。証拠がある限り、どこでも同じことを申し上げます」
「あなたは強い人だ」
「強くはありません。仕事に慣れているだけです」
王太子は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。
「仕事か。私にはまだ、あなたのように仕事に向き合う覚悟が足りなかった」
「殿下。遅くはありませんよ」
「あなたにそう言われると信じたくなる」
「信じなくていいです。ご自分で確かめてください」
王太子は頷いた。もう優柔不断な目ではなかった。
「待とう。ただ、この国にはあなたが必要だ」
私室を出た。廊下を歩く。涙が出そうだった。
近衛兵に案内されて正門に向かう途中、マルグリットとすれ違った。
「終わったようね」
「はい。断罪が撤回されます」
「妥当な結論ね」
「マルグリットさんのおかげです」
「私は鍵を貸しただけよ。記録を読んで意味を見出したのはあなた」
「それでも」
「一つ忠告しておくわ。断罪の撤回は始まりに過ぎない。リッチモンド公爵は簡単には倒れない。公開の場で決着をつける覚悟はあるの」
「あります」
「ならいいわ」
鍵束が鳴った。
少し先の廊下で、トーマが壁にもたれて待っていた。目が赤い。
「リアナさん。聞きました。断罪が——」
「ええ。あなたが記録を守ってくれたおかげよ」
「僕は……僕はただ、リアナさんが教えてくれたことを捨てたくなかっただけです」
「それが一番大事なことよ」
トーマは涙をこらえながら、大きく頷いた。
「リアナさん、管理局はどうなるんですか」
「分からないわ。でも、正しい方向に変わると信じている」
「僕は……リアナさんが戻ってきてくれたら、嬉しいです」
「それはまだ決めていないの。でもトーマ、あなたがいる管理局なら、きっと大丈夫よ」
「僕なんか、まだ何もできません」
「できないことが多いのは当たり前よ。大事なのは、記録を取ること。観察すること。手を動かすこと。あなたはもうそれを始めている」
トーマの背筋がすこし伸びた。
「……頑張ります」
「頑張りすぎなくていいの。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて。それが一番の仕事よ」
トーマは笑って去っていった。
前の人生で、後輩にこんなことを言えただろうか。
あの頃の私は自分のことで精一杯で、誰かを育てる余裕なんかなかった。
リアナとしての五年間は、仕事だけではなかった。
トーマを育て、マルグリットと信頼を築き、エルヴィンと無言の連携を重ねた。
その人間関係が、今、私を支えている。
前の人生で失ったものは大きかった。
けれどこの人生で得たものは、もっと大きい。
正門を出ると、エルヴィンが石壁にもたれて立っていた。
「どうだった」
「断罪が撤回されます」
エルヴィンの表情が——これまでで一番柔らかくなった。
「そうか」
「はい」
「……よかった」
たった一言。けれどその声の温度が、言葉の何倍もの感情を伝えていた。
並んで城下町の石畳を歩いた。
「管理局に戻るのか」
「まだ決めていません」
「技師団は有能な魔導技師をいつでも歓迎する。もし管理局でなくてもいいなら——」
そこで止まった。視線をそらして付け加えた。
「……個人的にも」
風が吹いた。冬の終わりの、少しだけぬるい風。
返事はしなかった。代わりに半歩だけ距離を縮めて歩いた。
肩と肩が触れるか触れないかの距離。
エルヴィンは何も言わなかった。ただ歩幅をほんの少し私に合わせた。
宿に着く頃、空には星が広がっていた。
前の人生の記憶がまた浮かんだ。
深夜のオフィス。最後の日。隣のデスクの人が小さな声で言った。
「もっと早く、言えばよかった」
あの言葉の意味が、今になって分かった気がする。
次は——もっと早く、答えを出そう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋に戻ると、トーマからの手紙が届いていた。
「断罪撤回の話が管理局内に広まっています。ディオンさんは蒼白です。そして——セレナ様が王太子殿下に泣きながら面会を求めたそうです」
最後の抵抗が始まる。




