第八話 雨夜の証言
噴水広場に、赤い花が置かれていた。
雨に濡れた石の縁に、一輪だけ。
断罪から三十五日。冬の雨が降る夜。
赤い花を確認してから二日後、広場のベンチに座って待った。
やがてフードを目深に被った女性が隣に座った。赤毛が少し覗いている。
フィオナは何も言わず、膝の上の紙束をそっと滑らせた。
フードの奥から、かすかに嗚咽が聞こえた。
「……ごめんなさい」
「何のことですか」
「あの日、私はセレナ様に命じられて、リアナ様の机に偽の伝票を入れました」
胸の奥がぎゅっと締まった。
「知っていました」
「え……?」
「伝票の紙質が管理局の公式用紙と違っていました。でも断罪の場では確認の時間をもらえなかった」
「それなのに、何も言わなかったんですか」
「言っても信じてもらえる状況ではありませんでした」
「ずっと……分かっていて、黙っていたんですか」
「黙っていたわけではないわ。証拠を集める時間が必要だったの」
フィオナは唇を噛んだ。
「この書類はセレナ様とリッチモンド公爵の書簡の写しです。断罪の三ヶ月前から計画されていた——リアナ様を管理局から排除して、管理権をリッチモンド家の息のかかった者に移すという」
紙束を広げる。雨を避けながら読む。
偽の伝票。セレナの涙の証言。王太子の追認。記録の没収。
すべてが「脚本」として書かれていた。
(……やっと、全部繋がった。)
「フィオナさん。この書類を書記官室に提出します。あなたの名前は——」
「出してください」
「本当にいいの。リッチモンド家から報復を受ける可能性がある」
「分かっています。でも私はもう隠れていたくない。怖いけど、嘘の上に立っているのはもっと怖い」
目はまだ怯えていた。けれどその奥に、小さくて固い決意の光があった。
「分かりました。あなたの証言が必要になります。準備ができたら連絡してください」
「はい」
「フィオナさん、一つだけ聞いてもいいですか。なぜ今になって」
フィオナはしばらく黙った。雨の音だけが響いていた。
「先週、街で保温器を直しているリアナ様を見かけました。パン屋の前で笑っていたんです」
「笑って……」
「断罪されて何もかも失って、それでも笑って働いている姿を見て。私は何をしているんだろうって。セレナ様の影に隠れて良心を押し殺して。リアナ様は前を向いているのに、私だけが過去に縛られたままで」
「フィオナさん」
「もう耐えられなかったんです。自分が嘘をついている側にいることに」
胸が熱くなった。
「あなたは勇気のある人よ」
「いいえ。勇気があるならもっと早く渡せていました」
「遅くない。今で充分よ」
「はい」
雨が強くなった。フィオナは立ち上がりフードを直した。
「リアナ様。あの日、断罪の場であなたが泣かなかったこと、恨み言を言わなかったこと、ずっと忘れられなかったんです」
「泣けなかっただけよ。何を言っても無駄だったから、ただ息をしていた」
「やっぱりあなたはすごい人です」
泣きながら笑って、雨の中に消えた。
◇
翌日、書記官室。
マルグリットはフィオナの書類を丁寧に確認した。
「これが事実であれば重大な問題よ」
「フィオナの証言と検査報告書、技師団資料、商人組合の申し立て、すべて一致しています」
「王太子殿下に直接上申する。ただし殿下は判断が遅い方よ」
「承知しています。事実を提示するところまでが私の仕事です」
マルグリットは微かに笑った。
「あなたはいい仕事人ね」
書記官室を出る前に、マルグリットが呼び止めた。
「一つだけ、個人的なことを聞いてもいい?」
「はい」
「怖くなかったの。何もかも失って、それでもこうして一歩ずつ」
「怖くなかったと言えば嘘になります」
「でしょうね」
「でも、もっと怖いことがありました」
「何?」
「何もせずに『自分がいなくても変わらなかった』と認めること。それだけは耐えられなかった」
マルグリットはしばらく黙った。
それから鍵束の中から一本の鍵を外し、私に差し出した。
「記録庫の予備鍵よ。保全命令が出ている資料の閲覧権は調査関係者にある。正当な閲覧権よ」
「本当にいいのですか」
「正当な手続きに基づいているわ。書記官長として許可する」
鍵を受け取った。この小さな鍵が、没収された五年分の記録への扉を開く。
「マルグリットさん。あなたは誰の味方でもないとおっしゃいましたね」
「ええ」
「でも、正しい手続きの味方ではある」
「それは味方とは言わないわ。仕事と言うの」
踵を返して去るその背中は、小柄なのにとても大きく見えた。
書記官室を出ると、エルヴィンが廊下にいた。
「粗悪部品の購入ルートが判明した。リッチモンド公爵家の取引商人経由だ」
「差額は」
「管理局の経理を通じてリッチモンド家に還流していた。技師団長の署名入り報告書がある」
封書を受け取った。
「ありがとう」
「礼はいい」
「それでも。あなたがいなかったらここまで来られなかった」
エルヴィンは視線をそらしたまま、ぼそりと言った。
「お前がいなかったら、動く理由がなかった」
雨が止みかけていた。廊下の回廊灯が一つ、灯りを取り戻していた。
トーマが修理したのだと後で聞いた。
あの子は黙って、自分にできることをしている。
宿に戻る道で空を見上げた。雲の切れ間から星が一つ覗いている。
ポケットの飴の包みに触れた。
エルヴィンがくれた飴。私が深夜作業のときに食べていたのと同じ種類。
あの人は何でもないような顔をして、大切なものを渡す。
言葉は少ない。けれど、行動のすべてが言葉の代わりになっている。
前の人生で、こういう人に出会えていたら。
もしかしたら、あのとき辞めずに済んだかもしれない。
でも——前の人生は前の人生。
今、ここで出会えたことに意味がある。
宿に着いて、階段を上がった。
部屋で今日の記録を整理する。
フィオナの証言。マルグリットの上申書。技師団の報告書。
すべてが揃った。あとは王太子の判断を待つだけ。
待つ。
一番苦手なことだ。手を動かしている方がずっと楽。
万年筆を手に取り、今日の記録を整理する。
フィオナの証言の要点。マルグリットの上申。技師団の報告書の概要。
すべてを時系列で並べると、一つの物語が浮かび上がる。
リッチモンド公爵家が管理局の利権を狙い、娘のセレナを使って私を排除し、傀儡の主任を据えて粗悪部品で差額を横流しした——という物語。
証拠はすべて揃っている。
あとは、この物語を正しく伝える場が必要だ。
王太子がどう動くか。それがすべてを決める。
でも、ここから先は私の領域ではない。制度の中で、しかるべき人がしかるべき判断を下す。
それを信じるしかない。
宿に戻ると、扉の下に紙片が挟まっていた。
「明日、王太子殿下が管理局の視察を行うらしい。非公式に」
心臓が跳ねた。
王太子が動いた。




