第七話 小さな手紙の勇気
王宮の正門前で、一通の手紙が私の手に押し込まれた。
差出人の名は書かれていない。けれど筆跡は侍女のものだった。
断罪から二十八日。
商人組合の業務改善請求は正式に受理された。
受理したのは書記官室——マルグリットの管轄だ。
これにより記録の保全命令が発令され、ディオンの記録廃棄は間一髪で止まった。ただし一部はすでに焼かれていた。
今日は調査の第一回として、王宮の魔導具の現状を報告する会議に出席する。
会議室にはマルグリット、ディオン、そしてセレナがいた。
王太子の婚約者として傍聴席に座っている。
報告を始めた。淡々と、事実のみ。
「商業区の保温器十二基中八基で、定期調整の遅延を確認」
「農業区の調温器四基中二基が回路損傷。農作物への実害あり」
「王宮東棟の回廊灯十二基中六基で、純正品と異なる部品を確認」
室内の空気が張り詰めた。
「カースル主任、この件についてご説明を」
マルグリットの声は事務的だ。
「予算の都合上、一部代替品を使用したことが……あるかもしれません」
「『あるかもしれません』では記録になりません。購入記録と予算使途報告書を一週間以内に」
「は、はい……」
会議後、廊下でセレナが待っていた。取り巻きはいない。
「リアナ。何がしたいの?」
「事実を報告しただけです」
「事実ねえ。あなたが何をしても、断罪は覆らないのよ」
「断罪を覆すつもりはありません」
「……は?」
「管理局の業務が正常かどうかを確認しているだけです。外部技師としての義務ですから」
セレナの瞳にかすかな焦りが浮かんだ。何も言わず踵を返した。
会議室に戻ると、マルグリットが書類を片付けていた。
「リアナさん。一つ確認したいことがある」
「何でしょう」
「あなたが提出した検査報告書の粗悪部品の記述は、誰かに指示されて書いたもの?」
「いいえ。現物を検査した結果です」
「政治的な意図もない?」
「ありません。不良品を見つけたから報告した。それだけです」
「その答えなら信用できるわ。政治的な意図があるなら距離を置いた。でも技術的な事実の報告なら、書記官室は正当な手続きで処理する義務がある」
鍵束が鳴った。マルグリットは部屋を出ていった。
廊下に出ると、技師団の若い技師が走ってきた。
「フェルトベルクさんですか? エルヴィン副団長から伝言です。『粗悪部品の購入先が特定できそうだ。明日の昼に詳細を伝える』と」
「分かりました。ありがとう」
技師が去った後、しばらく廊下に立っていた。
冬枯れの庭園を窓越しに眺める。
(……味方が増えている。)
マルグリットは味方ではないと言った。けれど正しい手続きを守る人がいるということは、何よりの支えだ。
(……断罪を覆すつもりはない。嘘ではない。事実が制度を動かすのだから。)
手紙のことを思い出した。
「セレナ様の断罪計画の書類を、私は写しました。でも怖くて渡せませんでした。渡す準備ができたら、旧市街の噴水広場に赤い花を置きます」
フィオナ。セレナの元側仕えだった侍女。
断罪の場で、セレナの後ろに控えて何度も唇を噛んでいた赤毛の女性。
彼女を急かしてはいけない。赤い花が置かれるまで待つ。
◇
宿に戻ると、エルヴィンが宿の前の石壁にもたれて立っていた。
「会議の結果を聞いた」
「早いですね」
「技師団にも回る。それと——粗悪部品の調査が技師団内部でも始まった」
「何か分かりましたか」
「購入ルートの特定まであと少しだ」
少しの沈黙。
「エルヴィンさん。前にも聞きましたが、なぜそこまで」
「前にも答えた」
「管理局がまともだった、でしたっけ」
「それ以外にもある」
「何ですか」
「あなたが調整した魔導具には癖がある」
「癖?」
「微かに余剰の魔力が残る。次の調整者への配慮だ。多少の遅れが出ても機器が安定を保てるように」
息を呑んだ。確かに、私が意識してやっていたことだ。
「マニュアルにはない技術だ。あれを見たとき、この人は本物だと思った」
エルヴィンの目が、薄暗い中で優しかった。
「それだけですか」
「それだけだ」
嘘だと分かった。でも追及しなかった。
「もう一つ、報告がある」
「何ですか」
「技師団の調査で、粗悪部品と同じ製造元の部品が王宮の他の区画にも使われていることが分かった。東棟だけじゃない。南棟の照明器具にも、北棟の空調管にも」
「範囲が広い……」
「組織的だということだ。一人の主任の判断でできる規模じゃない」
「リッチモンド公爵家の指示、ということですか」
「証拠はまだない。だが状況証拠は積み上がっている」
少しの沈黙。
「エルヴィンさん。あなた自身が危険ではないですか。公爵家に睨まれたら技師団の立場も……」
「技師団は技術の独立性を保障されている。王太子直轄だ。公爵家が手を出すには、王太子の許可がいる」
「でも、政治的な圧力は」
「圧力なら前からある。気にしていたら仕事にならん」
平然と言ってのけた。この人は、怖いもの知らずなのではない。怖さを計算した上で、それでも動くと決めている人だ。
並んで石壁にもたれた。肩と肩の間に手のひら一枚分の隙間。
冬の夜風が冷たい。けれど隣の温もりがわずかに感じられた。
やがてエルヴィンは石壁から離れた。
「リアナ」
名前を呼ばれたのは初めてだった。
「体は冷やすなよ」
それだけ言って去っていった。
ポケットの飴の包みに触れる。お守りのように残しておいた。
部屋に戻り、噴水広場のことを考えた。
フィオナの手紙。断罪計画の書類の写し。
もしそれが本物なら——すべてが変わる。
今までの証拠は、管理局の業務怠慢と粗悪部品の問題を示すものだった。
それだけでも十分に重大だが、断罪そのものの不正を証明するものではない。
フィオナの書類が加われば、話が違う。
断罪が計画的に仕組まれたものだったという直接的な証拠になる。
けれど、焦ってはいけない。
フィオナは怯えている。彼女のペースに合わせなければ。
ポケットの飴の包みに触れる。
前の人生で、こんな状況に陥ったら、どうしていただろう。
たぶん、一人で抱え込んで、一人で潰れていた。
今は違う。
エルヴィンがいる。トーマがいる。マルグリットがいる。
そして今、フィオナが手を伸ばそうとしている。
一人では到底たどり着けなかった場所に、少しずつ近づいている。
一人では到底たどり着けなかった場所に、少しずつ近づいている。
ベッドに横になる。
天井の染みを数えながら、目を閉じた。
前の人生で。
光る板の前で働いていた頃。あの世界には「内部通報」という仕組みがあった。
組織の不正を告発する手段。けれど私は使わなかった。怖かったから。
今は違う。
怖さは同じだ。けれど、一人ではない分だけ、一歩を踏み出せる。
エルヴィンの言葉が頭に残っている。
「体は冷やすなよ」
あれは心配していたのだ。技術者らしい、不器用な心配。
明日、赤い花があるかどうかを見に行こう。




