第五話 擦れ違う手と真実
王宮の回廊は、以前と同じ石灰岩の匂いがした。
けれど、足元の回廊灯の三分の一が消えている。
季節の変わり目の魔導具総点検。
外部技師として正式に参加が認められた私は、久しぶりに王宮の中に立っていた。
受付でカースル主任と顔を合わせた。ディオンの表情は一瞬だけ強張ったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、フェルトベルクさん。外部技師としてのご参加、ありがとうございます」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
「配置は東棟の回廊灯十二基と中庭の調温器四基です。報告書は所定の書式で」
「承知しました」
事務的なやり取り。それでいい。
東棟に向かう。廊下を歩きながら、目に入るものすべてを観察する。
(……やはり。全体的に魔力循環の効率が落ちている。)
王宮全体の魔導ネットワークの調整が狂い始めている。
私が組んでいた総合調整プランが引き継がれていないのだ。
回廊灯の点検に取りかかる。一基目、二基目と順調に進む。
しかし七基目で手が止まった。
内部に見慣れない部品が入っている。純正品ではない。形は似ているが素材が違う。魔力の伝導率が低い粗悪品だ。
(……これは。)
純正品の予算を計上しながら粗悪品を入れて差額を横流ししている可能性がある。
残りの五基も確認する。七基目から十二基目まで——すべて同じ粗悪部品。
六基連続。「たまたま」ではない。
指先で粗悪品の表面を撫でる。
純正品は滑らかで温かみがある。魔力の伝導が良い素材特有の質感だ。
一方、この粗悪品はざらつきがあり、冷たい。明らかに別物。
検査報告書に淡々と記載する。
(……私が「横領」で断罪された。けれど実際に横領しているのは——。)
まだ推測だ。
推測を事実にするには、部品の購入記録と実際に設置された部品を照合する必要がある。
購入記録は管理局の内部資料。外部技師には閲覧権限がない。
しかし——商人組合の申し立てが受理されれば、関連記録の開示が求められる。
マルグリットが示した道筋だ。
焦るな。一歩ずつ。
感情を報告書に載せてはいけない。
載せるのは、測定値と事実だけ。
中庭の調温器に移る。
こちらは部品の問題はなかった。ただし調整精度が著しく低い。
私の調整痕跡とその後の痕跡を比較すると、精度の差は共鳴測定子の値で明確に出た。
これも記録する。
検査報告書に淡々と記載する。
「部品の型番が純正品と不一致。材質の差異あり。品質検査を推奨」
中庭の調温器に移る。部品の問題はなかったが、調整精度が著しく低い。
私の調整痕跡とその後の痕跡を比較し、精度の差を記録する。
全部で十六基の魔導具を点検した。
そのうち六基に粗悪部品。四基に調整精度の低下。二基に魔力漏れの兆候。
正常だったのはわずか四基。
五年前、私が最後に全体点検をしたとき、異常のある機器はゼロだった。
四十日余りで、ここまで劣化する。
(……これが、管理を怠るということの現実だ。)
私が毎日やっていた仕事は、地味で目立たなくて誰にも褒められなかった。
けれど、それがなくなった途端にすべてが壊れ始める。
インフラとはそういうものだ。
正常に動いているとき、誰もその存在に気づかない。
壊れて初めて、ああ、誰かが守っていたのだと知る。
前の人生でも同じだった。
光る板の前で膨大な処理を毎晩こなしていた。辞めた翌月にシステムが止まって、初めて上司が慌てたという話を人づてに聞いた。
今回も同じ構図。
でも今回は、記録を残してある。
報告書の束をかばんに入れて、廊下を歩く。
作業を終え廊下を歩いていると、前方からセレナが来た。
金髪碧眼。華やかなドレス。取り巻きの侍女を二人連れている。
「あら。リアナじゃない。まだ王宮に出入りしていたの?」
「外部技師として正式な手続きで参加しています」
「そう。大変ねえ、断罪されてもお仕事をしなくてはいけないなんて」
「お仕事は好きですので。セレナ様こそ、管理局の状況はお耳に入っていますか」
セレナの微笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。
「何の話かしら」
「いえ、なんでもありません。失礼します」
一礼して横を通り過ぎる。すれ違う瞬間、セレナの香水の匂いが断罪の日を蘇らせた。
(……大丈夫。)
深く息を吸う。歩幅を一定に保つ。
報告書の提出窓口に向かう途中、エルヴィンとすれ違った。
彼は何も言わず、ただすれ違いざまにほんの少しだけ頷いた。
それだけで充分だった。
中庭を横切ろうとしたとき、トーマが調温器の前に立っているのが見えた。
「トーマ? ここで何を」
「僕も総点検の手伝いで……でも正直、調温器の調整なんてやったことなくて」
「マニュアルは?」
「リアナさんが作った手順書も廃棄されたみたいで、ありません」
やはり。五年かけて積み上げた業務フローがすべて消えている。
「トーマ、一つだけ教えるわ。調温器に触る前に必ず共鳴測定子で値を読んで。調整後にも読んで変化量を記録して。それだけで次の人が困らなくなる」
「分かりました」
「それと——無理はしないで。分からないことはカースル主任に確認しなさい」
「カースル主任は……聞いても『自分で考えろ』って言うだけで」
「そう……」
「リアナさん。僕、この仕事を続けていいのか分からなくなることがあります」
「続けなさい。あなたがそこにいることに意味がある」
トーマは目を赤くして頷いた。
報告書の提出窓口で、受付の職員が中身を見た。
「……部品の不一致、ですか」
「事実を記載しました。必要であれば品質検査の手配をお願いします」
「これは……上に報告しないといけませんね」
「お願いします」
王宮を出た。門をくぐった瞬間、肩の力がようやく抜けた。
宿に戻ると、机の上にエルヴィンからの手紙と、薄手の作業用上着が畳んで置かれていた。
「お疲れ様。上着を忘れていた」
私が管理局に置きっぱなしにしていたものだ。ポケットに手を入れると、小さな飴が一つ。
深夜作業のときにいつもポケットに入れていた、あの飴と同じ種類。
(……覚えていたんだ。)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
前の人生の記憶がよぎる。深夜のオフィス。隣のデスクからそっと差し出されたチョコレート。
あの人の顔は思い出せない。けれど掌の温度は覚えている。
飴を口に入れた。甘酸っぱい味が広がる。
窓の外、夕暮れの空に王宮の尖塔が影を落としていた。
あの中に、私の五年間がある。没収された報告書も、破片になった植木鉢も。
けれど今、手元には別の武器がある。
検査報告書。粗悪部品の記録。商人組合との信頼関係。
そしてエルヴィンという、静かだけれど確かな味方。
(……あの人は、いつも必要なものをくれる。資料も、工具も、飴も。)
言葉ではなく物で示す人。
それが不器用なのか、それとも——。
考えるのはやめた。今は仕事に集中する。
明日、商人組合に粗悪部品の件を報告しよう。
正式な申し立ての準備を進める。
私の手元にある武器が、また一つ増えた。




