第四話 鍵束と沈黙の味方
王宮書記官長マルグリットに初めて会ったのは、水路区画の修理現場だった。
小柄な白髪の女性が、大きな鍵束を腰に下げたまま、じっと私の作業を見ていた。
断罪から十四日。
商人組合からの依頼は増え続けていた。
保温器に始まり、水門管、街灯の回廊灯、農業区の調温器。
どれも管理局が放置している案件ばかり。
水門管の蓋を閉め、工具を拭いていると、マルグリットが近づいてきた。
「あなたがリアナね」
「はい」
「水門管の調整、見事だった。あの手つきは十年の経験でも足りない」
「ありがとうございます。失礼ですが、どちら様で」
「書記官長のマルグリットよ。王宮の書類は、すべて私の管轄」
書記官長。つまり、没収された私の報告書も——。
「お会いできて光栄です」
「光栄かどうかは、これからの話次第ね」
マルグリットは腰の鍵束に手を触れた。
「あなたの検査報告書が商人組合を通じて話題になっている。管理局が点検を怠っているという内容」
「事実を記載しただけです」
「ええ、そうでしょうね。だから話題になるのよ」
マルグリットは少し間を置いた。
「管理局から没収された書類は、書記官室の記録庫に保管されている。証拠品として封印されているから、誰も閲覧できない」
心臓が跳ねた。
「ただし、封印を解くには正当な理由としかるべき手続きが必要よ。断罪された本人が見せてくれと言っても通らない」
「……分かっています」
「でも、たとえば——商人組合が管理局の業務怠慢を正式に申し立てて、調査のために過去の管理記録との照合が必要だと判断された場合は、別」
マルグリットの目には何の感情も浮かんでいなかった。
「私は誰の味方でもないわ。王宮の記録を正しく管理する。それだけが仕事よ」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことは何もしていないわ」
彼女は踵を返した。鍵束がかすかに鳴った。
「あ、それとひとつ」
振り向かずに言った。
「記録庫の封印は、内務卓官の命令で行われた。リッチモンド公爵のね」
それだけ言って去った。
リッチモンド公爵。セレナの父親。
断罪の裏にいるのは、セレナだけではない。
公爵家が動いているなら、話は単純ではない。
管理局の主任は、王宮の魔導具の購入・予算配分・業者選定に大きな裁量を持つ。
私がその立場にいた五年間、業者選定は入札制を貫いた。品質の良い部品を適正な価格で。
けれどリッチモンド公爵家は複数の魔導具部品業者を傘下に持っている。
私の入札制のもとでは、品質で劣る公爵家の業者が選ばれることは少なかった。
主任が公爵家の意のままに動く人物に替われば——入札制は形骸化し、差額は公爵家に流れる。
(……だから私を排除したのか。)
横領の冤罪ではなく、利権の確保。
それが断罪の本当の動機だとすれば、証明すべきものは私の無実だけではない。
宿への帰り道、八百屋の前で足が止まった。保冷用魔導具が止まっている。
「すみません、保冷具が止まっていますが」
「三日前からだよ。管理局に連絡したら、人員不足で対応できないって」
「よければ見ましょうか」
蓋を開けて中を見る。単純な魔力切れだった。調整は五分で終わった。
「おお、動いた! ありがとう! これ持っていきな」
大きなかぶを手渡された。報酬としては不格好だが、温かい気持ちになった。
帰り道、商業区の広場を通った。
噴水の横のベンチで、子供たちが遊んでいる。
噴水の水を動かしているのも魔導具だ。水量が少し弱い。
(……ここも点検周期を過ぎているな。)
指先が疼く。直したい。けれど、依頼がなければ手は出せない。
勝手に触れば不法行為になる。正規の手続きが大事だ。
あの噴水は、私が管理局にいた頃は二十八日周期で調整していた。
水の音が好きで、調整のたびに少し長く耳を傾けた。
今は水音が細い。あと十日もすれば止まるかもしれない。
手帳にメモする。噴水広場。水量低下。推定残存日数十日。
いつか、この記録も意味を持つ日が来る。
街を歩くたびに、壊れかけた魔導具が目に入る。
それは、私にとって心臓を握られるような感覚だ。
直したい。すぐにでも。
けれど、今は一台ずつ、正規の依頼を受けて修理する。
証拠を積み上げるとは、そういうことだ。
感情ではなく手続きで。衝動ではなく記録で。
◇
宿に戻ると、エルヴィンが宿の前に立っていた。
初めて直接会う。手紙だけのやり取りだった人が目の前にいる。
黒髪に色白。作業着の袖をまくった腕に火傷跡がいくつもあった。
「回廊灯の件で報告がある」
前置きなしだった。
「管理局内部で、あなたが作った点検周期表が削除された。古い公式マニュアルに戻されている」
「いつですか」
「断罪の翌日だ」
やはり。
「誰の指示で」
「カースル主任。ただしカースルにはあの周期表を理解する力がない。消したのは、理解できないものを恐れたか、指示されたか」
「どちらだと思いますか」
「両方だろう」
淡々とした声。感情を排した技術者の報告。
けれど、わざわざ仕事の後に宿まで来ているという事実が、言葉以上のことを語っていた。
「管理局の中で他に動きは」
「カースルは毎日セレナ付きの侍女と連絡を取っている。内容は不明だが、頻度が異常だ」
「監視しているんですか」
「監視ではない。技師団と管理局は隣の棟だ。廊下ですれ違えば嫌でも分かる」
「公爵家との繋がりが深いということですね」
「そう考えるのが自然だ。カースルには管理局を一人で運営する実力がない。誰かの指示がなければ動けない人間だ」
「それでも、主任として着任できた」
「セレナの推薦だ。王太子の婚約者の推薦は重い。本来なら技術審査があるはずだが、免除されている」
「技術審査の免除……」
「リッチモンド公爵の口利きだろう。内務卓官の権限で審査手続きを省略できる」
一つひとつの事実が、パズルのピースのように噛み合っていく。
「もうひとつ。技師団の中にあなたの復帰を望む声がある。ただし表立っては動けない。リッチモンド公爵の影響力が強すぎる」
「そうですか」
「それと来週、王宮で季節の変わり目の魔導具総点検がある。管理局だけでは人手が足りず、外部技師の募集が出る」
ポケットから紙片を取り出した。
「外部技師として参加すれば、王宮区画の魔導具に正式にアクセスできる。あなたの商人組合での実績があれば条件は満たせる」
糸がまた一本つながった。
「ありがとうございます。でも、なぜそこまで」
「あなたがいた頃の管理局はまともだった。それだけだ」
エルヴィンは背を向けた。三歩ほど歩いて、足を止めた。
「無理はするな」
それだけ言って、去っていった。
夕暮れの路地に、彼の影が長く伸びていた。
宿の部屋で、手帳を開く。検査報告書の束を広げる。エルヴィンの紙片を横に並べる。
ひとつずつ。焦らず。確実に。
万年筆を取り、新しいページに書いた。
「次の目標:王宮総点検への参加。王宮内の魔導具の調整痕跡を正式に記録する」
窓の外で、城下町の回廊灯がまたひとつ、明滅を始めた。




