【4】真っ赤なスニーカーで、シゼルは後ろ向きに飛ぶ
「刑事さんは、きっとジゼルが好きだよね!」
明るい声と同時に、アリスが一歩だけ前へ進んだ。
そよ風に、長い薄茶の髪がふわりと揺れる。
――落ちる。
視界の中心に立つその細い身体は、屋上の縁に寄りかかるどころか、
50センチしか幅のない塀の上に両足を揃えて立っている。
それも、瞼を閉じたまま。
胸の奥が、警告というより悲鳴に近い直感で満たされた瞬間――
アリスがこちらの心の内をすべて見透かしているかのように、
優雅に片腕を持ち上げ、さらに一歩前へ進んだ。
「僕が落ちるか、心配?
でもね――もし、誰かが僕を必要としているのなら、僕は落ちないよ」
その声は、やさしい。
言葉よりも温度で胸の内側を照らしてくる、あの独特な声。
「さあ、刑事さんのためのジゼルを踊るから、見てて!」
アリスは真っ赤なスニーカーのまま、まるでバレリーナのように塀の上を歩く――いや、踊った。
軽やかさに、鳥肌が立つ。
美しさが恐ろしくて目を逸らせない。
その瞬間、記憶の渦がアリスと重なった。
――俺は、ジゼルが好きだった。
イギリスに住んでいた頃、着飾った母に手を引かれ、
何度も観に行った……。
男を死ぬまで踊らせる、乙女の復讐の精霊……。
だがジゼルは、恋人の裏切りで自ら命を絶ち、ウィリになって尚、精霊の掟に背き、自分を裏切った恋人を守った――
神谷の口が勝手に動く。
「……きみは、ウィリになったジゼルか……!?」
ピタリ。
アリスの足も、アリスの腕も、世界の風景も止まった。
ゆっくりと瞼が開き、氷よりも冷たい瞳が神谷を見た。
「ならば、あなたはアルブレヒト?
自惚れ屋の刑事さん!」
慈悲でも嫌悪でもない。
ただ“真実”だけを突きつける声は、楽しげだ。
そしてアリスは――
まるで背中に透明な羽根が生えているかのように、
塀の上からスッと飛んだ。
後ろ向きに。
神谷が目を開けると、病室だった。
腕に点滴をされ、自分の顔を覗き込む医師が見える。
「神谷さん。痛みはありませんか?」
医師の問いで、ズキリと痛む頭を初めて感じる。
「ここは、どこの病院ですか?」
神谷がやっとそれだけ言うと、医師は怪訝な顔をした。
「神谷さんが捜査でいらしたのでは?
ここは私立病院です。
あなたはVIP専用の病棟の裏口で、頭から出血して倒れていたのです。
扉に血痕もありました。
状況的には、誰かに突き飛ばされた可能性も考えられます。
今、警視庁の鑑識の方がいらしています。
CTスキャンでは骨折も内出血もありません。
扉に頭を打ち付けたのだと思われます。
断定はできませんが、頭皮の裂傷のみです。
処置済みです。ご安心ください」
「……あの扉は……空きますか?」
神谷の呟きのような問いに、医師はフッと笑った。
「空きませんよ。中からロックされています。
脳震盪も起こしてらっしゃるから、意識が混濁しているようですね。
12時間安静にしていれば治ります。ご安心ください」
神谷はもう何も言わず、瞳を閉じた。
そしてウトウトとしていると、誰かの気配がして神谷は目を開けた。
「神谷。大丈夫か?」
九条だった。
「……ええ。わざわざすみません」
「いや、動かんで良い。様子を見に来ただけだ。捜査については明日話そう」
ベッドの脇の椅子に座る九条が、珍しく微笑む。
「ひとつ、聞いても良いですか?」
「ああ。何だ?」
「今日は事件は起こりましたか?」
九条があははと笑い飛ばす。
「今日の事件は、
──キャリアのエリート刑事が、誰かに追われ、病院に逃げ込んだ末に叩きのめされた。
それだけだ」
翌日、午後。
神谷が退院の手続きを終えていると、同僚の堀雅人が来てくれた。
堀は187センチある神谷も見上げる大男で、実直そのもののキャリア警察官だ。
なぜ「特殊犯罪班」に配属されたのか分からない程、性格も真っ直ぐだ。
堀は「凛久〜! 災難だったな!」と言いながら、神谷のビジネスバッグを持ってくれた。
そして、マンションまで送るよと言って車を出してくれた。
病院の駐車場から、ふと、あの建物を見る。
屋上が見える。
――確かにアリスはいた。
俺は、階段を登った。
白いチューリップを拾いながら……。
だが、堀が言った一言で、神谷の考えは吹き飛ばされた。
「お前が追いかけてた黒いフードの男って誰? 現場に指紋も足跡も無し!
顔認証に掛けてもヒットしないんだよね」
「………黒いフードの男……?」
神谷の声が掠れる。
だが、堀は気づいていないようで、勢い良く話し始める。
「そうそう! 防犯カメラにバッチリ映ってるアイツだよ!
お前がアイツを追いかけて、病院に入るところまで映っててさ。
でも、お前がやられた場所がなあ……。
VIP専用棟の裏口だから、防犯カメラは最小限なんだよな。
知ってるか?
あの専用棟には政治家や富裕層が入院するんだと!」
「……俺は何をしてた……?」
「何って……!」
堀が笑う。
その瞬間、神谷は気づく。
胸の奥がひゅっと凍りつく。
自分の膝に一輪の白いチューリップが置かれていることに。
堀は神谷をマンションの部屋まで送ってくれたが、神谷が手に持つ白いチューリップのことは何も言わなかった。
まるで、最初から存在していないかのように。
――見えてないのか?
神谷は部屋で一人になると、チューリップの茎を折ってみた。
透明な雫がじわっと折った所から広がる。
本物だ。
神谷の目には本物にしか見えない。
一応、スマホで写真も撮っておき、
ジッパー付きポリ袋に入れてビジネスバッグに入れておいた。
そして、翌日。
神谷が定時に出勤した途端、九条の声が飛んだ。
「全員、会議室へ集まれ!」
刑事達が会議室に集まると、扉がロックされ、調光ガラスがオンからオフに切り替わり、外から見えなくなった。
「いいか、諸君」
九条の鋭い声が響き渡る。
「昨日、神谷警部補が襲撃された件で判明したことがある。
神谷警部補の発見時、神谷の手首にはバイオリンの弦が巻かれていた」
神谷がハッと九条を見る。
九条が厳しい視線を返し、小さく頷き、再び話し出す。
「そこから指紋は出なかったが、DNAが出た。
それは――
二年前のホームレス放火殺人犯の大学生の一人と一致した」
会議室の空気が、瞬間、凍りつく。
「だが、神谷はその事件当時、我々の”班”にはいなかった。
これは、間違った形での警察への怨恨とも取れる。
昨日、神谷は頭を打撲し脳震盪を起こしたせいか、記憶があやふやで目撃情報は無いに等しい。
可能性として、大学生の関係者が我々の”班”の者を見つけ出し、誤った情報で自分を追わせ、防犯カメラの死角に呼び寄せ復讐を果たそうとした。
だが、何かの理由でやり遂げられなかった。
しかし、前もって用意していたバイオリンの弦を神谷の手首に巻き、我々に伝言を残した。」
そこで一拍置くと、九条は凍てつくような声で告げた。
「疑問点は複数ある。
しかし――
……最大の問題は、この”特殊犯罪班”の人事が漏れている、ということだ」
ここまでお読み下さり、ありがとうございます。
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