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キラキラ星を弾くやさしい怪物は二度笑う。  作者: 久茉莉himari


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【3】美しさに触れたものは、落ちていく

九条が何気なくゴミ箱に捨てた、白いチューリップの花びら。


神谷の視界にそれが映った瞬間、指先が冷たく痺れた。

拾うべきではない――そう分かっているのに、身体が数秒固まったあと、勝手に動いた。

神谷はそっと花びらを掬い上げ、証拠保管袋に入れた。


捜査のためではない。

花びらが“現実に存在した”ということだけを確かめたかった。


胸の奥がきしりと軋む。

その痛みが、昨夜の出来事を否定できない“証拠”になっていた。


そして、閃いた。


――犯人の“規則性”。


法の裁きをすり抜けている犯罪者を、わざわざ私的に裁くとき、

なぜ、1メートル間隔に立たせるのか。

なぜ、捕まる危険を冒してまで、バイオリンを弾くのか。


これまで警察は、それを“犯人の異常性”として片付けてきた。

神谷も、ほんの数分前まで同じだった。


九条の指が、白いチューリップを神谷の肩から拾い上げるまでは。


胸がひゅっと縮み、視界が一瞬だけ揺れる。

言語化できない寒気が背骨をゆっくりと這い上がった。


だが――もし。


昨日の子と、追悼の花束を贈った子が同じ人物なら。

他の現場にも、白いチューリップが手向けられていた可能性がある。


それは、推理とは言えない。

捜査でもない。

ただの“思い込み”かもしれない。


それでも、神谷には他の考えはない。


自分がおかしくない証明を、

“自分にだけでいいから”

しなければならなかった。





神谷は、いじめの事件の一つ前に起きた案件の資料を――

“仕事として”ではなく、自分でも理由の分からない衝動に突き動かされるように、最初のページから最後の行まで洗い直した。


青信号を渡っていた小学生の群れに、逆走車が突っ込んだ。

たまたま同じタイミングで横断歩道を渡っていた二十五歳の会社員女性が、咄嗟に子供たちを庇い、死亡した。


警察は異例ともいえる三ヶ月もの間、ひき逃げ犯を逮捕できなかった。


――はずだった。


ある日突然、若い男が事件現場に設置された信号機へよじ登った。

それだけでも前代未聞だが、パトカーが到着する一分前に、男は頭から飛び降りた。

男は即死し、鑑識の照合で、彼こそがひき逃げ犯であったことが判明した。


そこまでは資料の中の出来事だ。


なのに――神谷は気づけば、その現場に立っていた。


夕暮れの横断歩道。

仕事帰りの人々が肩をすぼめながら歩き、ショッピング袋を手に楽しげに談笑し、冬限定のラテを持った若者が写真を撮り合っている。

幸福ばかりが、何の脈絡もなく散りばめられている光景。


その中心に立つ自分だけが、まるで世界から浮いていた。


神谷は、電信柱の根元に置かれた花束に気づいた。

しゃがんで確認するが、揃えられているのは菊を中心とした仏花のようなアレンジメント。

白いチューリップは――見当たらない。


神谷は目を閉じ、静かに手を合わせた。


立ち上がった瞬間だった。


革靴のすぐ先に、白いチューリップが一輪落ちていた。


背後から突風が吹いた。

神谷は思わず腕で顔を庇う。


風が収まって視界が戻ったとき――白いチューリップはもうなかった。


だが、十メートルほど先のアスファルトに、また一輪落ちていた。


神谷は駆けだした。


風が吹く。

チューリップは軽やかに転がる。

追えば追うほど遠ざかっていくのに、なぜか拾える距離には届きそうで届かない。


白い花弁がときおり風に舞い、神谷の視界を誘う。

まるで、


導かれているのか、

嘲笑われているのか、

そのどちらなのか分からない。


ただ一つだけ分かっていた。


追わなければ、壊れてしまう。


それが “間違っている” と理解していても、

悪戯でも妄想でも構わないという自己正当化を口の中で転がしながら、

神谷はただひたすら白いチューリップを追い続けた。


彼の世界には、いまや

風と、走り続ける自分と、白い一輪の花しか存在しなかった。





何百メートル走ったのか分からない。


息は荒いはずなのに苦しくない。

脚は悲鳴を上げているはずなのに痛みがない。

ただ――追っていた。


たかだか一輪の花を。


滑稽だ。可笑しい。

そんなことは神谷自身が誰より理解している。

それでも、追うことだけは止められなかった。


白いチューリップは風に乗って道を移動し、神谷はそのあとを走り続けた。

やがて、チューリップは病院の裏階段の前で静かに止まった。


神谷は迷いなく扉に手を掛けた。


開くはずがない。

セキュリティ上、一般人が外から開けられるはずのない扉――

だが、吸い込まれるように扉は音もなく開いた。


わずかな薄暗がりの中、踊り場に一輪の白いチューリップが落ちている。


神谷は慎重に階段を上る。

そっと拾い上げ、息を吐く。

どうして安堵しているのか、自分でも説明できなかった。


また一輪。

さらに一輪。

一段登るごとに“導かれる”ようにチューリップが落ちている。


気がつけば、神谷の手には白いチューリップの花束ができていた。

いつ拾い集めたのか覚えていない。

ただ――置いていくという選択肢は、最初から存在していなかった。


最後の扉の前に辿り着く。


当然、鍵が掛かっているはずだ。

そうでなければ困る。

開いたら――自分は“内側”へ入ることになる。


だが、ためらいの一瞬すら与えないかのように、扉はひとりでに開いた。


病院の屋上。


風のないはずの高層階で、

長い薄茶の髪が、片側に流れるように揺れている。


後ろ姿だけで分かった。


あの子がいる。


バイオリンを抱えたまま、静かに立ち、

――“キラキラ星”を弾いている。


夜の街を見下ろしながら、

ステージの中央に立つ音楽家のように、

ただ一つの旋律だけが氷のように澄んだ空気を満たしていた。





「――きみ」


神谷がわずかに声を発した、その瞬間。


「どうして来たの?」


やさしい。

驚くほど、透き通るほど、やさしい声だった。


中性的で、男女のどちらとも判別できない。

しかしまだ中学生になったばかりのような幼さが混ざっている。

それでも――ひどく落ち着いていて、人間の子供とは思えない温度だった。


神谷の手から、白いチューリップの花束がこぼれ落ちる。

花弁がバラバラと散り、二人の足元に白い雫の湖を作る。


足元に広がる白を見て、神谷は初めて気づいた。

自分が握っていたはずの花束は、いつの間にか“この数”になっていた。

落とした衝撃だけでは説明できない――増えている。


その湖の向こう側。

あの子は、変わらず真っ赤なスニーカーを履いている。


「私は……刑事で……」


神谷は言った瞬間、自分を殴りたくなった。


なぜ、なぜこんな時に、

もっと言うべきことがあったはずなのに――

なぜ、俺は“職業”で自分を証明しようとしたのか。


「刑事さんかあ!」


子供の無邪気な反応。

それなのに、音階のように整った声。

意味と感情が一致しない違和感が、じわりと皮膚の下に染み込む。


“キラキラ星”が静かに終わると、その子は下を見たままくるりと振り向き、

散らばったチューリップの上に、そっとバイオリンを置いた。


そして、顔を上げて神谷をまっすぐ見た。


薄茶の大きな瞳。

曇りがなく、底がなく、磨き抜かれた鏡のように光を返す。

この世のどんな美しいものより美しいのに、見てはいけない気がした。


人は美しすぎるものを目の当たりにすると、恐怖に駆られる――

神谷はその事実を、生まれて初めて理解した。


「こんばんは!僕はアリス!」


鈴が弾けるような声で言った次の刹那、

アリスは屋上の縁に“ひらり”と立った。


人が立つには細すぎる塀。

足を滑らせれば20階分の空虚へ真っ逆さま。

だがアリスには危険という概念すら存在しないかのように、

まるで舞台の中央に立つバレエダンサーのように優雅だった。


右足を前に、左足を後ろへ。

両手をゆるやかに広げ、

夜の街を見下ろしながら、静かにまぶたを閉じる。


止めなければ。

呼び止めなければ。

引き戻さなければ。


そのすべてを神谷は理解しているのに、

ひとつの筋肉も動かせなかった。


声も出ない。

身体も動かない。

恐怖でも、魅了でもない――“支配”に近い何か。


ただ、世界の時間だけが止まり、

神谷の心臓だけが激しく生きている。


そしてアリスの睫毛が、ほんのわずかに震えた。

ここまでお読み下さり、ありがとうございます。

この小説は週に一度、毎週金曜日23時更新です☆


Xはこちら→ https://x.com/himari61290

自作のキービジュアルなどを貼っています。

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