【2】触られた記憶、触れられない記憶
神谷は、北風が吹きすさぶ夜の都心を歩いていた。
輝くイルミネーションは、人々にとっては祝祭の光でも、神谷にとってはただ痛い光でしかない。
マフラーを巻いているのに、寒さは皮膚ではなく骨に刺さった。
あと少し歩けば、自宅マンションに着く。
だが神谷は方向を変え、川辺の遊歩道へ向かった。
夜の11時近く。
何の変哲もない遊歩道には、帰宅を急ぐ人が脇目も振らず歩いているだけだ。
神谷は川面を渡る身を切るような風に吹かれながら考えた。
今日のブリーフィングで、一人、“班”から外された。
外されたのは、神谷と同じキャリアの仲村。
27歳の神谷より三歳年上。能力も実績もある刑事だ。
だが仲村は言ってしまった。
「もしかして、この犯人達は狂信的な団体なのでは?
この子はただの囮。
学生が学生にお悔やみを言いにくれば、家族だって受け入れますよね?」
――誰でも一度はそう思い、そして一瞬で考え直すのがこの事件なのに。
そう思った瞬間、班長・九条の低い声が響いた。
「仲村。“カード”を置いて退室しろ。
君の“これからの”配属先については、この足で人事へ行け」
怒気すらなかった。ただ“判断”だけがあった。
静まり返った会議室で、仲村警部補は「失礼します」とだけ言い、
白いカードをテーブルに静かに置いて“特殊犯罪班”から退室した。
冷え切った手を組みながら、神谷は思う。
――この犯人の真の恐ろしさ。
それは“対価を求めない”ことだ。
法を破り、「何か」をして、犯罪者を“強制的に”自殺に追い込んでいる。
自分が犯罪者になっても構わない。
……いや、あれは自殺じゃない。
思考が蜘蛛の巣に絡め取られたように、堂々巡りを始めたとき――
風の音に混じって、バイオリンの音色が聞こえた。
空耳か?
そう思うのも不思議ではない。
バイオリンの音は確かに川の方から聞こえる。
その瞬間、理由もなく心臓が一拍だけ早く鳴った。
神谷はフラフラと立ち上がる。
遊歩道の柵を乗り越え、川へと向かった。
音色に届きそうで、届かない。
確かに聞こえる方向へ歩いているはずなのに、距離は一向に縮まらない。
気がつけば、神谷は川辺まで来てしまっていた。
水音に混じって聞こえるバイオリンの音。
それは「キラキラ星」だった。
その曲名を理解した瞬間、背中の皮膚が内側から凍りつく。
ここにいては駄目だ――刑事としての勘が激しく警告している。
だが身体は逃げたがらない。
胸の奥だけが「もう少し聞きたい」と囁いた。
震える手でスマホをポケットから取り出し、ライトをつける。
その光の先に、川の真ん中にある小さな岩が浮かび上がった。
その上で、中学生くらいの“人間”がバイオリンを弾いていた。
腰まである長い薄茶の髪が風に揺れている。
……なのに、髪は一度も顔にかからない。
まるで完備されたホールで演奏しているように、優雅に、無音の観客の前で弾き続けていた。
神谷は、吐息のような声で呟いた。
「……誰だ……?」
届くはずのない小さな声。
だが――バイオリンがピタリと止まった。
その瞬間、川面の冷気より冷たいものが神谷の背筋を走る。
中学生らしきその子が、ゆっくりと神谷のほうを振り向く。
小さな白い顔。薄茶の大きな瞳が、静かに瞬きを一度だけ落とす。
唇が桜色に光り、ふわりと息を含むように動いた。
息を飲んだ、その一瞬で。
「あなたはいったい誰でしょう?」
翌朝。
神谷は熱いシャワーを浴びながら、昨夜のことを細部まで思い出そうとしていた。
あの言葉を聞いた直後、神谷は脱兎のごとく川から遊歩道へと駆け上がった。
――いや、逃げたのだ。必死に。
街灯の人工的な光に包まれて、ようやく呼吸が戻ったことだけは覚えている。
だが、その先が曖昧だ。
気がつけば朝だった。
ビジネスバッグはソファに放り出され、スーツもワイシャツも床に散らばっている。
神谷は下着姿のままベッドの中で目覚めた。
川のど真ん中でバイオリンを弾いていた子供。
腰まである長い薄茶の髪。
大きな瞳の瞬き。
そして告げられた言葉。
そこまでは思い出せる。
だが、その直後にあった“何か”が、記憶の端で揺らめいている。
思い出そうとした瞬間、胸が締め付けられ、呼吸が乱れた。
映像が浮かびそうで浮かばない。
まるで――思い出すことを拒まれているかのように。
出勤時間が迫り、神谷は無理やり思考を断ち切って支度をした。
マンションから駅へ向かう途中。
早朝ランナーといつものようにすれ違う。
その瞬間。
視界に飛び込んできた赤いランニングシューズに、
脳ではなく心臓が先に反応した。
体温が音を立てて落ち、足が止まる。
あの子も――真っ赤なスニーカーを履いていた。
しかも、濡れてはいなかった。
川の真ん中にいたはずなのに。
バイオリンを抱えたあんなにか細い子が、川の中ほどまでどうやって行ったのか。
なぜ、弾いたのか。
どうやって、そこから戻ったのか。
どれも説明できない。
「神谷、どうした?目ぼしい情報でも見つけたか?」
九条の声に我に返り、就業フロアへ足を運ぶ。
神谷は、乱れを悟られまいと静かにマウスをクリックしながら言った。
「バイオリンの音が録音されない件は、二年前から科捜研が追ってます。
人物特定には至っていません」
九条が頷く。
「そうだ。周囲の防犯カメラも虱潰しに確認したが、バイオリンケースを持ち歩く人物はいなかった。
それで?」
「今回初めて『中学生くらいの子』が被害者家族と接触しました。
バイオリンを弾いていた人物と同一の可能性もあるのでは?
捜査対象から“子供”は除外されていますよね」
九条の眉間に深い皺が寄る。
「神谷……どうした?
二年前から数ヶ月おきに起こっているこの事件で、人物ではなく“バイオリンケース”を追う方が効果的だと提案したのは君だぞ?」
その瞬間、九条の手が神谷の肩に触れた。
「――何か付いてるぞ。
これは……白いチューリップの花びらか?」
白いチューリップ。
いじめで自殺した子供の母親に、あの子が渡した追悼の花束。
神谷は、声も思考も出てこなかった。
ただ鼓動の音だけが、耳の奥で異常に大きく響く。
昨夜ついた?
――いや、スーツは着替えている。
今朝ついた?
――いや、自宅に花は無い。
では――いつ、どこで、誰が?
否定を重ねても結論に辿り着けない。
そして思ってしまった。
あの記憶の“穴”の中で、
誰かに肩へ触れられた気がする。
ほんの一瞬、頬を撫でられたような感触すら、ある気がした。
だが、それが真実なのか、夢なのか、錯覚なのか――判断できなかった。
ここまでお読み下さり、ありがとうございます。
この小説は週に一度、毎週金曜日23時更新です☆
Xはこちら→ https://x.com/himari61290
自作のキービジュアルなどを貼っています。




