第8話 風邪ひいた。やばい、黙ってるのにうるさい
目が覚めたとき、喉が焼けるように痛んだ。
息を吸うたびに熱が広がり、頭の中で鈍い音が鳴っている。
重たいまぶたをなんとか持ち上げようとして、視界がふっと傾いだ。
無理だと悟り、そのままベッドに沈み込む。
横目に見えた時計は、午前八時を指していた。
いつもなら湯を沸かして麦茶を淹れ、洗濯機の音を聞きながら仕事を始めている時間。
けれど今日の俺は、ただベッドに横たわるだけの、具合の悪い人間だった。
ガチャ、とドアの開く音。
遠くから聞こえてくる足音が、こちらへ近づいてくる。
「……葵くん?」
顔をのぞかせた奏真は、まだ寝癖のついた髪のまま。シャツも着たてらしく、襟が落ち着かない。
目が合った瞬間、その顔が見る見るうちに強張った。
そして騒がしくなる。
起き上がることもできず、俺はそのままソファへと移動させられた。
毛布を被せられ、背中にクッションをあてがわれ、麦茶ではなくポカリを手渡される。
奏真の動きはやたらと素早く、騒がしいくせに世話焼きの手際が妙に良かった。
額に貼られた冷却シートがじんわりと熱を奪っていく。
ゼリー飲料をちゅーっと吸いながら、頭の重さが少しだけやわらいでいくのを感じる。
会話は途切れず、口数の多さも変わらない。
だがその明るさが、今は妙に心地よく思えた。
そういうときだけ、こいつはちゃんと“空気”を読める。
***
昼になり、うどんが出てきた。
あっさりした出汁。やわらかい麺。少しだけ生姜の風味。
思っていた以上に美味くて、気がつけば三口、四口とすすっていた。
喉を通るぬるめの汁が、まだ熱のこもった身体に優しく沁みる。
食べ終わる頃には、眠気が再び押し寄せていた。
目蓋が落ちる。肩が重くなる。
立ち上がろうとしたところで、奏真が言う。
「運ぶよ」
いらない、と突っぱねる間もなく、支えられながら立たされる。
肩に回した腕は、思ったよりしっかりとしていた。
普段は軽薄でうるさいくせに、こういうときだけ変に頼れるのがずるい。
寝室までのほんの数歩が、いつもよりもずっと長く感じた。
ベッドに倒れ込むと、身体の力が抜けていった。
枕の感触。シーツのにおい。額に触れる冷気。
そのどれもが、やけにやさしかった。
背中にかけられた毛布の重さに包まれながら、ふと口を開いた。
「……ありがと」
すると、すぐに返ってきた。
「たまには甘えなって」
誰に、と問い返すと、迷いもなく「俺に決まってんじゃん」と返ってくる。
その声には、いつものふざけた調子が混じっていた。
だけど、不思議と、気持ちは落ち着いた。
この人間は、普段はうるさくてしょうがない。
けれど──黙るべきときだけは、ちゃんと黙る。
その“間”を知っているところだけは、本当に信用できる。
目を閉じると、意識が少しずつ遠ざかっていく。
そのなかで、奏真の気配がそっと離れていくのがわかった。
戸口のあたりから、あの調子で声が飛んでくる。
「……あ、あとでアイス買ってくるね」
寝ぼけた頭で反応して、「アイスはいらん」と返すと、
「いや、俺が食べる」
「買うな」
「買う~~!!」
その声を最後に、ドアが閉まる音が響いた。
再び静寂が戻った室内。
熱の残る体はまだ重いけれど、どこか──ほんの少しだけ、楽になった気がした。
***
夜になっても、熱は下がらなかった。
静かな寝室。カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色がうっすらと差し込んでいる。
枕元のデジタル時計は、もうすぐ日付が変わることを告げていた。
うなされるように、小さく寝返りを打つ葵の額に、汗が滲んでいる。
奏真は、ゆっくりと椅子から立ち上がると、冷たいタオルを新しくして、そっと額に当てた。
指先が触れたその肌は、まだ熱を帯びていて、心配の色を隠せなかった。
冷却シートの粘着が剥がれかけていたのを見て、そっと取り換える。
「……ん」
かすかな声に、思わず手を止める。
目は閉じたままだけど、眉がわずかに寄っていた。
奏真は、その表情にそっと手を伸ばして、髪をなでるように撫でた。
「大丈夫、大丈夫だよ」
囁く声が、葵に届いたのかはわからない。
でも、ほんの少しだけ、眉間のしわがほどけた気がした。
椅子に戻っても、目は離せなかった。
昼間の強がりや皮肉は、影も形もない。
布団の中で、かすかに呼吸するその姿が、妙に小さく見えて──胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
やがて、静かな寝息の合間に、ふいに聞こえた。
「……そうま……」
寝言。
その名を呼ぶ声は、まるで誰かにすがるように、やわらかく震えていた。
奏真は目を見開いたまま、何も言えずに数秒固まった。
けれどすぐに、ふっと笑う。
「……はいはい、俺ここにいるよ」
返事のように、そっと言葉を返す。
葵はもう静かになっていたが、その寝顔はさっきよりも、ほんの少し穏やかだった。
「まったく……」
照れくさいような、くすぐったいような。
誰もいないはずの寝室で、奏真の笑い声が小さく弾んだ。
窓の外では、風の音がさわさわと木々を揺らしている。
季節は少しずつ秋に向かっていた。
冷え込む夜風のせいか、部屋の中もほんのり冷たく感じる。
奏真は、寝ている葵の肩までそっと布団をかけ直した。
そしてもう一度、額に手を当てる。
「……ちょっと下がってきた?」
体温計を取りに行って計ってみると、ようやく三十七度台に戻っていた。
「よかった……」
小さく安堵の息をつく。
それだけで、今日一日分の緊張が少しほどけた気がした。
ふと、視線を落とす。
静かに眠る葵の寝顔。
眉間のしわも、口元の力も抜けていて──まるで、子供みたいだった。
こんな顔、普段は絶対に見せてくれないのに。
「……ほんと、素直じゃないよなあ」
言葉には出さないけど。
でも、今日ずっとそばにいたことも。
名前を呼んでくれたことも。
全部、伝わってる。
奏真はそっと、葵の髪を一撫でして、隣の椅子に深く腰を沈めた。
まだ夜は続く。
でも、なんとなくこのまま朝まで起きていられそうな気がした。
「……早く良くなれよ」
呟くように、そう言って目を閉じる。
ゆっくりと、穏やかな呼吸だけが重なって──
寝室の空気が、すこしあたたかくなった気がした。