第5話 一分じゃ足りない感情があるって知った朝
午前十時。
奏真は朝から謎のテンションで洗濯にいそしんでいた。
洗剤の香りと、洗濯機の回る音。
──この部屋に“生活音”があるなんて、ほんの数週間前までは考えられなかった。
「よし、あとは干すだけ!……うわっ、靴下が迷子!」
「全部白だからだろ」
「この子、微妙に丈が違うんですよ。分かってあげて」
「靴下に人格つけんな」
「人じゃないよ、俺の一部だよ」
「やかましい」
干された靴下が風に揺れる横で、俺はキッチンに立ち、湯を沸かしていた。
奏真のうるささはいつものことだけど、今朝はその“いつも通り”が妙にありがたく思えた。
──昨夜の配信は無事だった。
バレることも、炎上することもなく、コメント欄は穏やか。
“あの声”だと気づいたやつもいない。
──奏真が、黙々と火消ししてくれたおかげだ。
「感謝はしてる」
「え、なに今の!?それ録音してもいいやつ!?」
「お前の布団に蟻入れるぞ」
「やめて!蟻の行列で人格崩壊する!」
日常は続いていく。
静かじゃない。でも、心地いい。
***
昼過ぎ。
翻訳の仕事を終えて、コーヒーを片手にベランダへ出る。
曇り空。ひんやりした風。
どこか遠くで犬が、寝言みたいに小さく吠えていた。
そのすぐそば。
しゃがみ込んでいた奏真が、顔を上げてこちらを見る。
「葵くん、植物とか育てたりしないの?」
「なんで」
「なんか、こう……静かに芽が出て、ちょっとずつ伸びて、みたいなの合いそうじゃん」
「生き物を信用してない」
「うわー出たー。省エネ哲学者」
「……面倒見れる気がしないだけだよ」
「でも、声には水やってるじゃん」
「……なにそれ」
「いや、なんとなく」
ふざけてると思ったのに、真顔で刺してくる。
──ずるい。そういうの。
返す言葉が見つからず、黙ってコーヒーを啜った。
***
夕方。
夕飯の買い出しに、近所のスーパーへ向かう。
「うわ、今日トマト安い!」
「トマト嫌い」
「俺が食べる用だよ!ビタミンC大事!」
「……お前、野菜ちゃんと摂ってんの意外」
「舞台って体力勝負なんだよ。野菜と筋トレが命」
「お前の声量、野菜でできてたのか」
「ピーマンが声帯支えてる」
「嘘つけ」
買い物メモ:
・玉ねぎ
・豚こま
・うどん(冷凍)
・奏真の好きな杏仁豆腐(こっそりカゴに入ってた)
レジで財布を出そうとすると、先に奏真が手を出した。
「今日、俺出す」
「は?」
「恩返しキャンペーン中。あとスタンプ貯まると100円引きになる」
「ケチかよ」
「違う!効率型庶民派イケメン!」
「うるさい」
***
帰宅後、台所に立つのは奏真。
俺はリビングで麦茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
「今日のメニューは、冷しゃぶうどん!」
「夏か」
「食欲ない日でもツルッといけるやつ!」
「……別に食欲なくはねぇけど」
「じゃあ大盛りね」
何気ないやりとり。
だけど──こういう時間が、一番長く続けばいいと思ってしまう。
その考えが、少しだけ面倒くさい。
本当は、ひとりでいるのが楽だったはずなのに。
「……なぁ」
「ん?」
「……なんでもねぇ」
「え、なにそれ!気になる!言ってよ!」
「いいって」
「言うまで料理完成しません」
「脅しかよ」
「交渉術です!」
ひと呼吸置いて、ぽつりと漏らす。
「……お前、うるせぇけど、意外と静かなんだなって」
「……それ、どういう意味?」
「なんか──黙ってても、居てもいい感じがするっていうか」
一瞬、言葉が途切れた。
フライパンの“じゅうっ”という音だけが部屋に響く。
そして次の瞬間──奏真が盛大に爆発する。
「えっ、それってつまり同居続行確定ってこと!?延長あり!?それとも正式契約!?え、なに、いまのプロポーズ!?!?」
「違う!」
「違うの!?!?」
「違う!!」
騒がしい。耳が痛い。水でもぶっかけて黙らせたいくらいだ。
でも──それでも。
この騒がしさに、今日もちょっとだけ、救われていた。