第3話 台詞で泣かせてみろよ、俳優さん
風呂上がりのタイミングで、突拍子もない質問を投げかけられた。
「なあ、葵くんって、自分の歌で泣いたことある?」
奏真はバスタオルを頭に乗せたまま、牛乳のグラスを片手に立っていた。
こっちは翻訳作業を終えて、ようやくベッドに沈もうとしていたところだ。
「……ない」
「一回も?」
「俺の声は、自分の外に向けてるものだから。自分に向けたことない」
「へぇ……」
珍しく、奏真が黙る。
──と思ったのも束の間。五秒と経たずに口を開いた。
「じゃあ、誰かに言われたことは?“泣いた”とか、“刺さった”とか」
「ある」
「やっぱり!それってつまり──」
「……泣かせたいわけじゃない」
その一言に、奏真の動きがぴたりと止まった。
「伝われば、それでいい。泣くのは、その先にある副作用みたいなもんだろ」
「副作用、か……なるほどね」
濡れた前髪をかき上げながら、奏真が少しだけ静かな声で呟いた。
「じゃあ、俺の台詞で泣ける?」
「は?」
思わず眉をひそめる。
「真面目な話。声で感情を揺らせるのって、歌だけじゃないんだよ。たとえば、台詞ひとつ。演技ひとつ。呼吸ひとつ。間の取り方。舞台の上って、全部が“声の説得力”で決まる」
「急に何言ってんだ」
「葵くんの声は一分で人を泣かせる。なら、俺の台詞は何秒でいけるかなーって」
軽口めいた言い方なのに、目は真剣だった。
まるでスイッチが切り替わったように、奏真の表情が“俳優”の顔へと変わっていた。
──本気でやる気らしい。
「……じゃあやってみろよ」
「えっ、今?」
「今しかねーだろ。濡れ髪で牛乳持ったままでも泣かせてみろよ、俳優さん」
「わー!なんか急に煽られてる!いいっすね、そのノリ!」
コップをテーブルに置くと、ひとつ咳払いをして姿勢を正す。
その瞬間、体の軸が自然と変わったのがわかった。
重心が、まるで舞台の真ん中に立つ役者のものになっていた。
そして──空気が変わった。
「……『どうして黙ってた?』」
台詞が始まる。
「『お前に言えるわけないだろ』
『言ったところで、どうせ笑う。分かった顔して、全部知ってるみたいなツラして、俺を見下す』
『だから黙ってた。悔しかったから。悔しくて、言えなかった』」
言葉と言葉のあいだに、丁寧な“間”がある。
演出も照明もないただの部屋なのに、不思議とそこに“シーン”が浮かび上がっていた。
まるで、周囲の空間だけが照らされているような錯覚。
「……『ほんとは、気づいてただろ?』
『全部、分かってただろ?』
『それでも、お前は何も言わなかった』
『俺が壊れていくの、黙って見てたくせに』」
目が合った。
声は静かなのに、強烈な圧が胸を打つ。
喉が、わずかに震えた。
──この声は、ちゃんと届いてる。
「──終了」
台詞の終わりと共に、張り詰めていた空気がふわりと解ける。
「……どうだった?」
「……」
返す言葉が見つからなかった。
評価なんてできるものじゃない。ただ、胸の奥に重たい何かが沈んでいる感覚だけが残っていた。
「……まあまあ、かな」
「あー、ツンデレ出た!いま“良かった”って言うところでしょ!」
「言うかよ」
「泣いた?」
「……泣いてねぇ」
「惜しい!次は泣かせます!」
「勝手にやってろ」
肩をすくめ、ソファに倒れ込む。
──でも内心では、少しだけ悔しかった。
演技ひとつで、ここまで空気を変えられるなんて。
俺の声とは違うベクトルで、人の感情を動かす手段があるなんて。
知らなかった。
「……一回、見てみたいかもな」
「ん?なに?」
「お前が、舞台で喋ってるとこ」
「え!?いまのもう一回言って!?葵くんが“見たいって言った!!」
「うるせぇ!」
「うわ、マジうれしい……これはヤバい……記念日登録しとく……」
「今の忘れろ」
「絶対忘れない!!」
騒がしい。やかましい。テンションも高すぎる。
でも──なぜか、胸の奥。喉じゃない、もっと深い場所がじんわり温まっていく。
“演技”というものが、思っていた以上にしっかりとした“武器”なんだと、初めて知った。