第2話 うるさいくせに、空気は読む男
朝六時半。目覚ましをかけた覚えはないのに、耳障りな音で目が覚めた。
「……なんだよ」
ぼんやりと瞼を開けると、リビングの奥から妙に陽気な鼻歌が聞こえてくる。
見ると、ジャージ姿の男が、軽快に卵を操っていた。
「おっはよーございます!」
「……うるせぇ……まだ六時台……」
「え、葵くんて低血圧タイプ?それとも夜型?」
「どっちでもねぇ……」
起きたばかりの身体に、返す気力すら湧かない。
それでもすでに部屋中にコーヒーの香りが満ちていて、朝からフル稼働しているこいつの生活力を感じさせた。
「ちなみに今日の朝ごはんは、焼き鮭、出汁巻き卵、味噌汁、白米、あと納豆」
「えっ和食……?」
「気合い入りました。朝は静かに整えたほうが一日うまくいくって言いますし!」
「うるさい奴がそれ言うか……」
「喋ってる時点で俺の静寂は無効化されるんですよ、知ってました?」
「お前がそれ言う?」
朝から容赦なく飛び交うボケとツッコミ。
こっちはまだ半分眠ってるというのに、テンポだけは完全に置いていかれる。
諦めて席につくと、テーブルの上には見事な和食がずらりと並んでいた。
焼き鮭の照りも、出汁巻きの巻き具合も、どこかの料理番組のワンカットのように整っている。
「……普通にうまそう」
「うまいです。自画自賛済です」
「うざ」
「はい、それも褒め言葉と受け取ります」
「やっぱうざ」
黙って箸を取り、味噌汁をすする。
じんわりと体の内側から温まっていく感覚が広がった。
──これ、ちゃんと出汁から取ってる。
インスタントにはない、やさしくて、しっかりとした味。
「……うまいじゃん」
「ありがとうございます。今のうまいも録音しとけばよかった……!」
「やめろ」
「ですよねー」
本当に素直なやつだ。
素直すぎて、ちょっとむかつく。
***
午前十時。
奏真は洗濯物を干しながら、小声で台詞の練習を始めていた。
「……“どうして黙ってた?”……“お前に言えるわけないだろ”……」
口調はシリアスだが、本人はいたってリラックスしている。
それでも声の抑揚や間の取り方は的確で、意識して聞くと、その演技の丁寧さが伝わってくる。
なにより、こちらがPCに向かって作業している間は、驚くほど静かだ。
──見た目やテンションに反して、意外と“プロ”なのかもしれない。
だが、こちらが席を立った瞬間、リビングにまた声が戻る。
「この場面、情緒乗せすぎるとクサくなるんだよなぁ……」
「……知らん」
「え、聞いてた?」
「声でかいんだよ」
「すみません、職業病です!」
「その職業、ちょっと考え直したほうがいいぞ」
「ごもっとも!」
──なんだろう、憎めない。
距離感が近すぎるのに、なぜか不快ではない。
こっちの無言にも余計な詮索をせず、必要以上に喋りすぎると、ちゃんと空気を読んで黙る。
そして、黙っていれば勝手に掃除を始めてくれる。
「……なんでお前、そこまでやるんだよ」
ふと口をついて出た問いに、奏真はすぐに反応した。
「なにが?」
「家事。世話。朝食に掃除に洗濯。役でも作ってんのか?」
「役……じゃなくて、“役割”っすね」
「……は?」
「葵くんの声を聴いて、何かしたくなった。それだけ」
言葉はあまりにあっけなくて、逆に嘘くささがなかった。
真顔で言うその様子に、演技の匂いは一切ない。
「俺、たぶん誰かに“何かを与えたい”って本気で思ったの、人生で初めてかもしれない」
「……」
「葵くんは迷惑かもだけど。俺は勝手に、そばにいたいって思っただけで」
──ほんと、バカみたいにまっすぐだな。
けど、少しだけ。
そのまっすぐさに、救われてる自分がいるのも事実だった。
「……なら、勝手にしてろよ」
「うん!勝手にします!」
やっぱうるさい。
でも──悪くない。
***
その日の夜。
俺がマイクの前に座ると、奏真は無言でソファに移動した。
スマホの電源を切り、ブランケットを膝にかけ、静かに深呼吸する。
足音も気配も、まるで透明になったかのように消えていく。
……喋らなければ、本当に気の利くやつなんだよな。
マイクに向き直り、息を整え、喉を鳴らす。
一分間──その短い時間だけは、自分だけの世界に入る。
誰にも干渉されず、誰の手も届かない場所へ行ける。
けれど今はほんの少しだけ──その空間に“誰かの存在”があることが、心地よかった。