第1話 0:100の生活開始
──初日からこれだ。
何が「話しかけません」だ、と心の中でツッコミを入れる。
朝から全力の声量とテンション。
こちらの鼓膜が震えるレベルで、静けさとは無縁の朝が始まっていた。
奏真の言葉が止まらない。
「葵くんは何時くらいに歌う感じ?」
「気分。喉の調子次第」
「なるほど……じゃあ、空気で察します!」
「無理だろ、お前じゃ」
「がんばりますっ」
──軽口ばかりの男。だが、キッチンに立つ姿は意外なほど手際がいい。
卵を片手で割って、迷いなくフライパンに落とす。
トースターにパンを放り込みながら、同時進行でお湯を沸かし、インスタントスープの準備まで済ませていた。
動きに無駄がない。
あの騒がしさが嘘のように、流れるような手順で朝食が出来上がっていく。
「はい、朝ごはん完成! スタートから60点!」
「自分に甘いな」
「最初から満点狙うと伸びしろなくなるんで!」
気楽な調子で笑いながら、俺の皿にトーストを置いた。
ふと見ると、ちゃんとジャムが塗られている。細かいところだけ妙に気が利くやつらしい。
「……ありがと」
「えっ」
「……聞こえなかったことにして」
「いま、ありがとって言いましたよね!? えっ?奇跡?録音しとけばよかった!いやでもそれはそれで怒られそう!」
「うるさい」
「うれしい!!」
勢いばかりで空回りするかと思いきや、意外にちゃんと響いてくるものがある。
箸を置いて、スープをひと口。
──うまい。それがまた、少しだけ悔しい。
このテンションについていく気などないが、
──少なくとも、こいつの料理が不味い未来は想像しにくい。
***
朝食が終わると、奏真はすぐに立ち上がり、手際よく片づけに取りかかる。
洗い物、拭き掃除、床にはコロコロ。ついでに洗面台の鏡まで磨いている。
ここまでやるか、と目を見張るレベルだった。
「家事、好きなの?」
「というか、無心になれるんですよねー。稽古の台詞覚えながらとか最適」
「へぇ……仕事、休んでていいのかよ」
「今日は休み!次の現場は来週!」
「俳優ってそんな自由なの?」
「自由じゃないけど、自由を作ってる!時間はね、情熱でひねり出すものなんすよ」
なんだそれ。よくわからないけど、本人は真顔で言っている。
手元の動きは真剣そのもの。
雑さのかけらもなく、むしろ細部まで神経が行き届いている。
黙ってさえいれば──というより、黙っていれば、けっこうちゃんとした人間かもしれない。
「ん?どうかしました?」
「いや……意外とちゃんとしてるなって」
「そりゃ本気ですから!」
その言葉のあと、奏真は床にぺたんと座り込み、じっとこちらを見つめてきた。
「なに」
「葵くんの顔、思ってたよりちゃんと生きてる顔してて、安心しました」
「どういう意味だよ」
「もっとこう……死人みたいな顔かと思ってたんですよ。勝手なイメージで」
「お前な……」
「でもちゃんと目に光あるし。少なくとも、俺の声にツッコミ入れられる余裕はあるってことですし」
その言葉に、内心で息をつく。
奏真は、ほんのわずかに目元だけを緩めて笑った。
──たぶん、この人は。
舞台の上でも、きっとこんなふうに笑うんだろうな。
その笑みが、妙に絵になっていた。
「……疲れたら、出てっていいからな」
「俺、長期滞在型なんで」
「二週間契約って言ったよな?」
「一日が長ければ、二週間も長くなるじゃないですか」
「それ詭弁な」
「人生って詭弁の連続ですよ!」
調子のいいやつだ。
でも、悪くはない。
この距離感。この軽口。この空気の濃さ。
うるさいけど──たぶん、嫌いじゃない。
***
夜。
録音前の静けさが、部屋を包み込む。
俺がマイクをセッティングすると、奏真は何も言わず、そっと動きを止めた。
ソファに身を預け、目を閉じ、物音ひとつ立てない。
「……ちゃんと分かってんだな」
誰にともなく、そう呟いてマイクに向き直る。
一分。たった六十秒。
けれど今、そこには初めて“リアルタイム”の聞き手がいた。
その気配だけで、喉が少しだけ、軽くなった気がした。