プロローグ ──その声、ずっと探してた
深夜一時。
窓の外に人影はなく、部屋の空気もまた、静けさに沈んでいた。
明かりは、デスクランプの小さな灯りだけ。マイクのインジケーターがぽつりと光り、そこにだけ微かな熱を帯びている。
喉に軽く指をあてて状態を確認する。やや張りはあるが、まだいける。
録音ボタンを押し、無駄なノイズを入れぬよう、そっと息を吸い込む。
一分。
それが今の自分に許された、音を放つ時間だった。
吐き出すように紡いだのは、声とも熱とも呼びきれないもの。
その正体は輪郭だけが浮かび上がる“なにか”で、確かに己の奥底から引きずり出された音だった。
──たとえこの声が、今日も誰の耳にも届かなくても構わない。
ただ、もし誰かが、たったひとりでも立ち止まってくれたなら。
録音が終わると、マイクの灯りが静かに落ちた。
PCの画面に、通知がひとつだけ浮かぶ。
短いコメントだった。
《泣いた》
──またか。
最近、こういうコメントが増えている。……増えたとはいっても、週に一件あれば良いほうだけれど。
喉の奥に、じんとした痺れ。
その音をかき消すように、部屋の隅でケトルが静かに沸き始める。
かすかに鳴るコポコポという音が、やけに遠くに感じられた。
温かいスープでも飲んで、今日はもう休もう。
──そう思った矢先。
スマホに、ひとつの通知が届く。
《DM:音瀬奏真》
「……は?」
目にした名前に、思わず小さく声が漏れた。見覚えがある。
念のため検索をかけてみる。予感は的中だった。
舞台にも映画にも出演している、そこそこ有名な俳優。
SNSのプロフィールには、公式マークまでついていた。疑いようもなく本人だ。
彼からの最初のメッセージは、こんな風に始まっていた。
《昨日の配信、聴いていました。たった一分なのに、涙が止まりませんでした》
文面は丁寧で、売名や営業目的のにおいはない。
最初は、正直なところ、返信するつもりなどなかった。
けれど──
その翌日も、さらにその次の日も、彼からのメッセージは途切れることなく届いた。
毎日、律儀に。
言葉遣いは礼儀正しく、馴れ馴れしさもない。
けれど、ほんの少しずつ、確かに距離を詰めてくる。
──五日目。
とうとう、こちらから返信を返してしまった。
《ありがとうございます。無理に聴かなくていいです》
数分も経たないうちに、返事が届く。
《返事がもらえただけで泣きました》
……またそれか。
だが、どうやら礼儀はちゃんとしているらしい。
変に感情を押しつけてくるわけでもないし、やたらと絡んできたり、コラボの話を持ちかけてくるようなこともない。
ただ、真っ直ぐに「ファンです」と伝えてくる、その素直さがあった。
やりとりは、その後もぽつぽつと続いていく。
向こうの文章量は多いが、こちらは短く簡潔に返すだけ。
だが、奇妙なことに、そこに疲労感はなかった。
──十日後。
届いたのは、少し雰囲気の違うメッセージだった。
《お礼を伝えたいです。直接会って話すことはできませんか?》
即答で、断る。
《会うつもりはありません》
それでも、彼はこう返してきた。
《了解です。でも、どうしてもそばであなたの声に触れたいと思ってしまいます》
──数日後。さらに一通、理解に苦しむ提案が届く。
《直接でなくても構いません。家事や掃除など、何かお手伝いさせてください》
思わず数秒間、画面を見つめたまま硬直する。
それでも、なぜか指は動いた。
《二週間限定。生活に干渉しないこと。それなら》
送信してしまった直後、ふっと後悔が胸をよぎる。
だが──そのわずか十秒後。
彼からの返信は、爆発するように届いた。
《ありがとうございます!!命を懸けて家事します!!》
……やばい奴かもしれない。
***
数日後。玄関のチャイムが鳴る。
モニター越しに映ったのは、明るい金髪の男だった。
カジュアルなジャケット姿。首には細いチェーンのネックレス。
そして、目を見開いたような、底抜けに明るい笑顔。
──本当に来た。
その事実に、思わず言葉を失った。
彼は元気よく自己紹介をして、両手に大荷物を抱えていた。
タオル、服、掃除道具……準備だけは、どうやら完璧らしい。
しかも、やたらとテンションが高い。
葵はしばらく無言でモニターを見つめていたが、やがて溜息をついた。
そして──
「……マジで変なことしたら即追い出すからな」
そう呟いた。
それに対して彼は、即座に「はい!」と返事を返し、荷物を抱えたまま部屋の隅へと動いた。
どこか慣れているのか、無駄な音を立てず、足音すら聞こえない。
よく喋る男だったが、鬱陶しさを感じるほどではなかった。
軽口を叩いているようで、空気を乱すわけでもない。
──この反応の速さ。声の大きさ。
その全てが、自分の暮らす静かな日常とはまるで違っていた。
最悪な出会いだと、最初は思った。
けれど、不思議と──退屈ではなかった。