3.海水浴
「ローズマリー! あまり沖までは行くなよ!」
「わかってる!」
浮き輪を抱え海へと駆けて行く妹に大きな声を上げるエリック。私はニンマリと見上げる。
「エリックも行って来ればいいじゃない」
「…僕が泳げないの知ってるだろ」
恨みがましい視線でそう言って、パラソルの下、私の横へと並んで座る。目の前にはキャッキャウフフと海と戯れる男女。昼食後、海で泳がないかと誘われてここにいる。
私的には断りたかったけどローズマリーが乗り気だったので仕方ない。
「あれ? エリックくんは泳がないのかい?」
そこに後ろから声を掛けてきたのはカゴを抱えたウィルお兄様だ。
「お兄様っ、…ふふ、エリックはカナヅチなんですよ」
「嬉しそうに言うなよ」
「ホントのことじゃない」
「そうだけども!」
「はは、まあ取りあえず炭酸水でも飲むかい? 暑いだろ」
「あ、いただきます」
「ありがとうお兄様」
カゴから取り出された冷たい炭酸水の瓶を受け取る。キャップを開けるとシュワシュワと泡が溢れて砂に染みを作った。
「おーい皆んなー、少し水分休憩でもしようか!」
ウィリアムが海に向かって大きく声を掛けると、気付いたのか向こうで手が振られる。
「…そういえば、お兄様、もう一人の方は?」
「ん? ああ、マクファーソン? あいつは飲み過ぎだから部屋に連れて行ったよ」
「だろうね、酔っぱらっての海水浴なんてほとんど自殺だから」
「ふーん、でもエリック、お酒に溺れるのも一種の自殺じゃない?」
「うわ、厳しい意見」
「いいえ、厳しいくらいでいいと思うわ、あの飲んべえは」
「それは同意ね」
増えた声は泳いでいた女性二人が会話に加わったから。だけど後二人足りない。
「あれ、ロイデンは?」
「取られちゃったわよ」
「え?」
「エリックくんだっけ? 貴方の妹さんに泳ぎを教えてるわ」
「え、ローズマリー?」
レイチェルが指差す方を見ると、海の中でトレファスとローズマリーが向かい合って何やら話している。その身振り手振りからすればクロールでも教えてるのだろうか?
「あー…なるほど、人に教えるとかそういうの好きだからねぇ、ロイデンは」
「学校じゃないのよここは。バカンス中だっていうのに…」
「はは、流石に熱心な可愛い生徒を相手じゃあ、君たちも邪魔はできないか」
「はっ、何それ。ちょっとウィリアム、私にも炭酸水ちょうだいよ」
「ああ、ハイハイ」
ウィリアムのからかう声にリアナは不機嫌な顔で答える。
誰がどう見てもリアナはトレファス狙いだ。
…まあ、あれだけ顔が良ければ必然的にそうなるのも頷ける。私たちに話し掛けるレイチェルだってそうだろう。
「それで、貴方たちは泳がないの?」
再びの質問にエリックの顔がげんなりとする。なので代わりにもう一度説明するとレイチェルは今度は私に向かって同じ質問を繰り返した。
「貴方は泳がないの?」
「あー…、…私は…、怪我があるんですよ、腕に」
横にいるエリックの体がピクリと揺れた。
「あら、…酷いの?」
「いえ、昔の傷なんでもう治ってるんですけど、見た目があれなので」
「そう…、…残念ね」
レイチェルはそう言って少し眉を下げる。けれど、口元は微かに上がっているようにも見える。「残念ね」が何に対してなのか聞いてみたいとこだ。
「でもそんなに酷い傷でもなかったろ?」
と、ウィリアムからの怪訝な声。
従兄であるお兄様は私の怪我のことも、その経緯も知っている。
「気になるほどでもないと思うけど」
「うーん、私が気にするわけじゃなくて…」
「………」
無言になってしまっているエリックをチラリと見る。
この怪我は私自身が招いたこと。別にエリックのせいでもない。
もう大分前で風化した感はあるけれど、それでもまだエリックには随分と効くようだ。
上がりそうになる口角を誤魔化すため、ここはとっとと話しを変えよう。
「それより、お兄様こそ今日は泳がないんですか?」
「ああ、何となく気分じゃなくて」
「ローズマリーの先生もお兄様がしてあげたら良かったのに」
「え、何? ウィリアムってば水泳が得意だったりするわけ?」
リアナが炭酸水の瓶を揺らしながら軽い感じで尋ねる。そんなことはないだろうという雰囲気に私は厶ッと眉を寄せた。
「お兄様は学生の頃競泳の選手だったんですよ。ライフガードの資格だって持ってるし、シャーロットさんだって海で溺れそうになってたとこをお兄様に―――あ、」
「…? …何よ?」
突然言葉を止めたことに、リアナが訝しげに尋ねるが。
眉を下げウィルお兄様を見上げる。お兄様は緩く笑って頷くと私の頭にポンと軽く手を置いた。
「だから気を使うことないのに」
「でも」
「え、なんなのよ?」
「僕の別れた婚約者だよ、シャーロット。 海で出会ったんだ」
「へえ。 あらじゃあ海はトラウマじゃない? だから気分が乗らないとか?」
「はは、そこまで引きずらないよ。 今日は単にそんな気分なだけで明日にはまた変わってるかも。 …あ、そうだ、じゃあ明日はエリックくんに泳ぎを伝授しようか?」
「――え!?」
急に振られてエリックは目を見開き瞬く。おかげでさっきまでの沈んだ雰囲気は解消されたが、今度はその顔に動揺が走る。
けれどお兄様はハハッと笑ってそれ以上押し付けてくることはなく。多分、エリックの気を晴らそうとしての振りだったのだろう。
「…私、先に部屋に戻るわ」
少し俯き加減の早口で、そう声を出したのはレイチェルだ。
「あら、もう泳がないの?」
「ええ、今日はもう上がるわ」
「フリス嬢? 少し顔色が良くないけど、もしかして太陽にあたり過ぎた?」
「――え、…あっ…、いえ…」
ウィリアムの声に何故か余計に顔色を悪くしたレイチェルに、「大丈夫ですか?」とエリックも声を掛ける。
「ウィリアムさんが言うように、炎天下にずっといると熱中症っていう状態になって、」
「あっ、うん、大丈夫だから! …もう行くわねっ」
「えっ、あのっ?」
近づくエリックから逃げるように、レイチェルは慌てて身を翻して屋敷の方へと駆けて行った。
唖然と見送るエリックに言う。
「エリック、何かした?」
「ええっ!?」
「まあ、それは冗談だけど」
「………」
「でもローズマリーとロイデンさんもそろそろ休憩した方がいいんじゃない?」
ジト目のエリックをスルーして私はまだ海に入ったままの二人に視線を向ける。
トレファスのおかげかローズマリーの泳ぎは何となくクロールな形になってきている。休憩のタイミング的には丁度良いだろう。
ウィルお兄様も「そうだね」と頷いて残る二人の名を呼んだ。
□
レイチェルは小走りになりながら屋敷へと駆け込む。
その急いた様子に玄関ホールを掃除していた使用人のジョアンナが「大丈夫ですか?」と声を掛けるが、その声も耳に入らないのか、階段を駆け上がり部屋に入ると鍵を閉めた。
そして独り呟く。
「……まだ、そうとは限らないわ、まだ…」
それは自分自身に言い聞かせるように。
□
休憩の後もトレファスとローズマリーの特訓は続き、それが面白くなかったリアナは早々に、そして暫くしてウィリアムも「先に戻るね」と屋敷へと引きあげて行った。
残った私とエリックはボーッと泳ぐローズマリーを眺める。見る限りもう完璧に泳げている。
「カナヅチな兄は立つ瀬なしだねー」
「いいんだよ、別に…」
「にしても、ロイデンさんに懐いたね、ローズマリー」
「あー、あいつは顔が良い人間が好きだからなぁ」
と、私をチラリと見る。
一応ゲームのヒロインを張れるのだから私の顔は良い。そしてダンシェル家の兄妹揃ってこの顔が好きなのは昔から。おかげでローズマリーは率先して外堀を埋めてくれる筆頭だ。
それでも本丸はなかなか陥落してはくれないけど。
エリックの視線を受けて、私は改めてニッコリと微笑むとちょっとだけ隙間を詰めズイと顔を寄せる――、途端泳ぎ出す茶色の目。
「な、何?」
「エリックも、好きだよね」
「え」
「私の顔」
「うぇっ!! ……あ、…えーっと…?」
「ンフフ」
「…あは、は?」
これ以上は突っ込まないでいてやろう。
流石に疲れたのかローズマリーが浜へと上がって来た。
「お姉様もう無理…、部屋で休みたい」
「お疲れさま、でも凄いじゃないローズマリー、もう完璧に泳げてる」
「そう?」
「彼女の筋がいいんだよ。だからもう教えることはない。免許皆伝だ」
後ろに続いたトレファスが笑顔爽やかに言う。 ローズマリーはペコリと頭を下げた。
「ありがとうございました、ロイデンさん」
「ああ、こちらこそ。――ところで、他の皆んなは?」
「僕ら以外もう皆んな引きあげちゃいましたよ」
「そうか。じゃあこちらもそろそろ戻ろう」
パラソルや敷物を片付け屋敷へと戻る途中で、建物の方から人影がやって来るのが見えた。
「おいおい、トレファス。お前いつから引率の先生になった?」
酔い潰れていたマクファーソンはやっと目が覚めたらしい。からかうような口調でそう話す。
そんな嫌味を、トレファスは慣れた様子でスルーする。
「お前こそ今から泳ぎにでも行くのか?」
「は、ちげーよ。起きたからちょっと散歩だ」
「ふーん。でももうすぐ夕食だろ? それまでには戻れよ」
「ああ、わかってる。お前に言われるまでもない」
鬱陶しそうに手を振って、マクファーソンは私たちの横を通り抜け海の方へと向かった。
「うわぁ、感じ悪ーい」
「だからー…。ローズマリー、お前さっきから率直過ぎるぞ」
「エリック、それフォローになってないから」
「いやいや、ああいう感じだがそう悪いやつでもないんだよ。仕事はちゃんと出来るし」
「はあ…」
トレファスの言葉に三人揃って不審な顔を向ける。
だって、悪いところしか見ていない。それに仕事のことなんて私たちが知るわけない。
さっきのエリックの発言と同じでそれもまたフォローの方向性を間違ってると思う。
まあただ、あの男の印象なんてどうでもいいことだ。「ピンク頭」発言だけは許さないけど。
そんなピンク色の私の髪も今は夕焼けで赤く染まる。
いつもより赤く感じる夕焼けに目を眇めていれば横に並んだエリックが空を見上げ言う。
「雨になるかもね」
「そうなの?」
「西の空がこれだけ赤いから」
「ふーん」
他愛のない話しをしながら屋敷の中に入るとギブソン夫人――マイラがいて、夕食は七時なことを教えてくれた。今からならまだ二時間ほどある。
「じゃあそれまで各自部屋で休憩だな」
「賛成ー、でもその前にシャワー浴びたい」
「じゃあそのままバスルームに行きなよ。着替え持っていってあげるから」
「うん、そうする。ありがとうリリアベル姉様」
トレファスの声にぞろぞろと階段に向かうとマイラが「ああ、」と声を上げた。
「ロイデン様、すみません忘れるとこでした」
「ん?」
「少し前ですが、フリス様にロイデン様が戻ったかと聞かれまして。お戻りでないことを話しましたら戻り次第部屋に来てほしいとの伝言を承りました」
「レイチェルが? ……なんだろう?」
「さあ…、内容はお聞きしてませんので」
「うーん…、まあ後で行ってみるよ、ありがとう」
「いいえ」
呼び止められたトレファスと共に、関係ないのに一緒に止まっていた歩みを再開し階段を上がる。
「えっと…、フリスさん? 体調大丈夫ですかね?」
「ああ何か顔色が悪かったって言ってたね」
「あの、レモン水に塩と砂糖を混ぜたものを飲めば少しマシになると思うんです」
「そうか、じゃあ厨房で頼んでから行ってみよう。 でもどちらにしても僕も先にシャワーだな」
エリックの提案は熱中症であれば意味のあるものだろうけど、あれは実際どうだろうか。
二階でトレファスとは別れ私たちは三階へと進む。上がり切った先、バルコニーに続くガラス戸の向こうには燃えるような空。
赤い背景にたなびく雲は影を落とし黒く、綺麗というよりもその光景はどちらかといえば禍々しく見える。
ローズマリーはそのままバスルームへと向かい、私は部屋へと向かう途中にもう一度窓の外へと視線をやる。
滲むように徐々に迫って来る夜の帳は、得体の知れない怪物のように見えて。
その景色は、何とも言いようのない不安を覚えさせた。
この傷の話しを書いてる途中で、急遽過去話(シリーズ③)書き足しました。
しかもいらん落書きもw