どうか地獄の苦しみを
あなたは一生地獄を書いていてね。
僕の心に撤去しきれない地雷のように深く埋まっている、言葉の一つ。今も、丁寧に掘り返さなくたってその全容を、目の前にあるような錯覚を覚えるくらい描き起こせるような鮮明な過去だ。
……いや、すまない。正確には違う。意図せず掘り起こされたから、目の前にあるのだ。それまで、僕でさえ忘れていたのだから。確かにあると知りながら、それに繋がる数多の感情への線がブツ切られたような、摩耗とでもいう忘却。
「先生? どうされました?」
「あぁ、いや。なんでも。」
「話、聞いてましたか? 何かいい事でもあったんですか〜って。」
「聞いてたよ。特に無いさ……偶然だよ。」
「先生にしては珍しく明るいお話だったので、てっきり心境の変化でもあったと思ったのに……こういうお話も書けるんですね。」
「そうだね、そうなんだよ。」
自分でも意外だったとも。何が、と言われてしまえば、自分の事が、という他ない。
自分で言うのもなんだが、僕は優秀だった。そこそこ裕福で余裕のある暮らしが出来て、優しく親身になってくれる両親に愛され、数人の友達に囲まれ信用されていた。
学校でも社会にでても、僕の立場の人間を嫌う人は多くても、僕という人を嫌う者にはあまり合わなかった。恵まれた立場であり、それをこぼす事無く受けることが出来ていた。
だから、こんな感情が自分にある事は、とても意外だった。誰かの不幸をこんなにも望めることが……
いつの間にか、たくさんの恋の中に埋もれていったその記憶は、大学の頃で間違いなかったと思う。
高校に入り、中学には無かった繋がりや嗜好に触れる中で、僕は創作に惹かれた。その中でも、受け取る人によって無限に近い広がりを持つ文学に惹かれていった。
文字という暗号めいたものだけから読み取るそれには、現実からかけ離れた様々な世界が踊る。それが楽しくて仕方が無かったし、大学に入ってサークルに所属してからは、読んで感想を貰う機会が格段に増えた。さらに僕はのめり込んでいった。
そんな僕には、「二重人格先生」という渾名がついてまわった。一切の幸せや甘えを排したような、創作とは思えない、しかし現実より数段酷い地獄を書く、と。
その友人は現実をなんだと思っているのだろう、と僕が思うより先に、お前の何処からこんなものが滲み出て来るんだよ、とお言葉を頂き。サークル内で僕は度々そう揶揄されるようになった。尊敬も込めて、のものだったが。
彼女の事を認識したのは、それから数ヶ月経ってからだった。綺麗だが目立たない位置にいた女性だった。皆と程々に交流するが、ふと見れば一人で携帯と向き合っている人だった。
「そういえば、水瀬さんは参加しないの?」
「感想を言わないだけで、全部読んでるから。安心して、火脚 裕樹くん?」
人を、記号みたいにフルネームで呼ぶ人だった。近寄らせても踏みいらせないという雰囲気が、僕にはとても眩しく見えた。芯を持ち、逞しく強く生きているように。
僕は流されて生きるような人で、大勢のやる事、やって欲しい事を優先してしまう。僕にないものを持っている彼女が羨ましくもあったし、もっと見てみたいと思った。更に言うなら、僕にだけ見せてくれる顔があれば良いのに、とも。
だが不思議なのは、僕には彼女の書いた物語を読む機会が、あまり巡って来なかった事だった。他にも何人か同じような人がいたが、共通点はその時は気が付かなかった。
気がついたのは、大学を卒業して暫くしてから。古本屋でバイトをしながら何冊かを出版まで漕ぎ着けた頃だった。
久しぶりに仲間で集まらないか。そんな呼びかけになんと全員がイエスを返した年。卒業してから九年。僕らは三十を超えていた。
卒業すればバラバラ、自分達の活動内容からしても、集まる事は今後も少ないだろう。だから、記念を作らないか。そう言って作られた卒業冊子。僕達の話を纏めた大きな一冊。
懐かしく思いながら読み返す中、彼女の話を読んだ時にふと、先の言葉を思い出したのだ。真綿のような柔らかさの中に砂糖菓子のような甘さを孕んだ優しい物語。そうだ、彼女はこんな話ばかり書いていたのだった、と。
そうして全て読み終えた頃に、随分と陰鬱な話を書くなと思い出した面々。それが、彼女が話を見せるのを緩く拒んでいた人々だった。穏やかな仲間で、当時は意外に思う事も多かった。
彼女の意図は、意図も易く理解出来た。それは、卒業を近くに控えた秋の事。離れるのが惜しくて、これから先も今より近くを生きたくて、僕は彼女に想いの丈を綴った。そうしたら、翌日に僕を捕まえた彼女が言ったのだ。
何処か悲しげに歪んだ顔で言うには、「暗い話を作る人間は今がとても明るくて、明るい話を作る人間は現実が地獄だから━━あなたは一生地獄を書いていてね」と。
僕は、最初は受け入れて貰えたと浮かれたものだ。だが、その日のうちに消されていた連絡先と、火脚先生という呼び方が、僕への拒絶を物語っていた。
明るく生きよう、という誘いかと思えば、自分とは違うという拒絶。あんまりな文句に、楔となって刺さるには十分だったのだと、卒業の頃には理解していた。
あれから十年。先日あった久々の会合では、彼女は晴れやかな笑顔を浮かべていた。あの頃のような斜に構えた強さも、諦観を孕んだ余裕も無く。ただ、美しく凛としていた。
この前、出版社から打診があったのだと、嬉しそうに話していた。そのタイトルは覚えがある物語。趣味としている小説サイトを検索してみれば、なるほど。公開停止にされている。
先月まで連載されていた、希望に溢れたストーリー。安心できるありふれた展開ながら、活き活きとしたキャラと独特なセリフが頭に残るものだった。
随分と、幸せに溢れている。彼女も、物語も。奇しくも、彼女が僕に埋め込んだ呪いの反証こそ、彼女だったのだ。
彼女がもし、僕のような話を書いていたのなら。まだ諦めも着いたのかもしれない。彼女は何も変わっていないのに、あの時に違うと拒絶した僕の位置にいるのだ。あの時の拒絶はなんだったのか、と。
僕は、そっと小説サイトを退会し、一次会で帰った。彼女とは、一度も目が合う事は無かった。
話を戻そう。そう、僕は不幸を望んでいる。他人の不幸を。
今なお、惨めたらしく、未練がましく、女々し い程に、過去の呪物に寄りかかっているように。僕の目の前に掘り出された呪詛を証明している僕の原稿に目を走らせる、目の前の彼女を睨みながら。
「どうされました? 裕樹先生?」
「だから、どうもしていないって言ってるんだよ。」
「もしかして、私が編集としてここにいるのに不満ですか? あの時も言いましたけど、ちゃんと作家も続けてますよ。」
「聞いていたとも、水瀬くん。」
「そうですか。話そうと思ったら帰っちゃってたから、聞いてないのかと。」
あぁ、本当に何を考えているのか分からない。そんな彼女の筆が綴る主人公達に、地獄のような不幸があれば良いのに。
この作品は、一人の読者様からアイデアをいただいた事が発端です
親愛なるT.K.様へ本書を捧げます(?)