光と影7
花や植物の世話をし終えてから、準備した紅茶とともにモナからもらった焼き菓子を二枚ほど食べ、小説を手に取る。
しかし、途切れ途切れの集中力ではなかなか一冊を読み切れず、入り口を何度も見つめながらため息をついた。
絶対にアルフレッド様は来てくれる。やっぱり忙しくて、ここに来られないかもしれない。
対極なふたつの思いが心の中で揺れていたが、日が暮れ始めると同時に諦めの気持ちが強くなっていった。
きっともうアルフレッド様は来ない。
相手は一国の王子でとても忙しい身。ここに来る気持ちはあっても時間が取れなかったのなら仕方がないと、自分自身に言い聞かせる。
ティアラは手に持っていただけの植物図鑑をパタリと閉じた。
来られないのなら、明日自分から会いに行けば良い。ティアラはそう気持ちを入れ替え、椅子から機敏に立ち上がり、書棚と向き合う。
言葉を交わすことは叶わなくても、アルフレッドの出発を見送ることはできるはずだ。彼が王都に帰る前に、ひと目だけでも姿が見たい。
「そうよ。お兄様なら出発の時間を知っているはず」
落ち込んでいた気持ちを新たな決意で奮起させ、さっそくラディスに聞いてみようとティアラは戸口へ歩き出す。
その瞬間、キイッと戸が開いた。思わず足を止めたのと、見えた姿にドキリと鼓動を高鳴らせたのはほぼ同時だった。
「……アルフレッド様」
すっと、扉の隙間から身を滑らせるように室内へ入ってきたアルフレッドに、ティアラは慌てて駆け寄る。
「遅くなってすまない。随分と待たせてしまった」
「とんでもない。兄から今日はお忙しいと聞いて。だから今日は……」
言葉の途中でティアラは言葉を詰まらせた。来てくれなかったという切なさが、彼を目にしたその一瞬で喜びに塗り替えられ、思わず目に涙が浮かぶ。
それを見られまいとティアラはアルフレッドから視線をそらしたが、少し遅かったらしい。アルフレッドにそっと腕を捕まれ、ティアラは逞しい胸元へと引き寄せられた。
「寂しい思いをさせてすまなかった」
きつく抱きしめてくる腕の中で、ティアラは体を硬くしアルフレッドと見つめ合う。
カタリと音が鳴り、戸口の向こうに誰かの気配を感じ取る。不安な視線をティアラに向けられ、アルフレッドは僅かに項垂れた。
「大丈夫、俺の護衛だ。予定が詰まりすぎていて、ひとりでこっそり出てこられなかった。遅くなっておいて申し訳ないのだが、そこまで長居もできない。すまない」
残念な気持ちがティアラの心を占めたのはほんの数秒。無理をしてでも時間を作って来てくれたことへの嬉しさのほうが勝っていく。
ほんの数秒、額をアルフレッドの胸元へと押し当てる。それだけで幸せな気持ちになり、ティアラは小さくはにかんだ。頬を赤らめながら、ゆるりと首を横に振る。
「そんなに謝らないでください。こうして来てくださっただけで、私は幸せです」
「ありがとう」
再び優しく抱きしめられ耳もとで囁きかけられた言葉に、ティアラの心は温もりで満ち溢れていく。
「疲れているでしょう? 良かったらお座りになって。紅茶ならすぐ準備できます。それと焼き菓子もあります」
いつまでも立たせておくわけにはいかないと椅子を勧めながら、ティアラはアルフレッドの腕から抜け出し動き出す。
少し前にボルメが置いていってくれた新しいティーポットからアルフレッドのぶんの紅茶を用意し、テーブルへと運ぶ。
続けてモナがくれた焼き菓子の箱も手に取って、アルフレッドと一緒にティアラも席に着く。
昨日のパーティで食べた魚料理が素晴らしく美味しかったという話から始まるも、主に喋っているのはティアラだからか、最近近くの森で見かけた植物や季節の花のことへと話題がそれていく。
熱弁を奮っている自分に途中で気づいて、ティアラは失敗したと渋面になる。
「ごめんなさい。私ばかり話をしてしまって。面白くないですよね」
大抵、趣味の話で熱くなると相手に呆れ顔をされる。それを自覚しているからこそ、アルフレッドと言葉を交わすときは注意しないといけなかったのに、うっかり夢中になってしまった。
時間を作って来てくれただろうに退屈な思いをさせてしまったと反省するティアラの頭をアルフレッドはそっと撫でた。
「いや。楽しいよ。離れている間、ティアラは何を見て、どう感じていたのかを想像するだけで、まるで自分も一緒に自然に囲まれていたような気持ちになれるから」
「アルフレッド様」
「道行く足を止め、傍らに咲く花へのんびり目を向けるほど、今もまだ心に余裕がないんだ」
わずかに目を伏せて、少し苦しげにアルフレッドが言う。ティアラもある光景を思い出し、胸をちくりと痛めた。
ティアラがアルフレッドと初めて出会ったのは、イヴォンヌ邸の裏手に広がる森の中だった。
夜中、ティアラは買ってもらったばかりの植物図鑑を森の中に置いて来てしまったことに気がついて、寝ぼけ眼の兄を巻き込み、こっそりと屋敷を抜け出したのだ。
昼間とは違う森の鬱蒼とした姿に時折足を竦ませはするものの、図鑑を一晩放置するのは絶対に嫌という強い気持ちだけで、足早に進んでいく。
置き忘れたのは切り株の上。そこまであと少し……という所で、風に混じって聞こえた苦しげな声に、幼い兄妹の足が完全に止まった。
初めは恐怖しかなかったが、苦しげな声が耳を打つたび、徐々にラディスは違和感を覚え始め周りを見回し出す。
そしてとうとう、木と大岩が寄り添う陰でぐったりと横たわる男の子を見つけた。それがアルフレッドだった。
持っていたランプをティアラに預けたあとラディスは大慌てで屋敷へと走り、父を連れて舞い戻る。
肩や腹部から血を流し、大怪我をしている彼を運び、それから三ヶ月ほど屋敷で面倒を見たのだ。
特にティアラは幼いながらも賢明にアルフレッドの看病に努めた。自分もあの場にいたというのに、兄と違ってまったく動けなかったことに負い目を感じていたからだ。
元気になるまで面倒をみたいという責任感は、やがてアルフレッドと一緒にいると楽しいからという単純な思いに変わっていく。
もともと人見知りではあったが、多くの時間を彼に費やしていたためか、回復し始めたアルフレッドと打ち解けるのはそれほど難しくなかった。
そして、回復した彼の帰る場所が王都だと知りティアラはがっかりした。王都は幼い自分が気軽に会いに行ける場所ではないからだ。
涙ながらに彼を見送り一ヶ月後、突然、「アルフレッドの両親がお前たちに礼を言いたいらしい」と、兄と一緒に父に連れられ、王都に行くことに。
そこでアルフレッドと再会し、彼が第一王子だったことを知る。
事実は確かに衝撃的だった。しかしそれよりも、ティアラはアルフレッドの元気な姿にホッとし、胸の中にあった彼への恋心を認識する。
それが長年に渡る苦しい片想いへの始まりだとは知らずに。
王子である以上、危険と隣り合わせで生きていくことを避けられないのかもしれない。
先ほどの彼の言葉からティアラはそう読み取って表情を曇らせるも、テーブルの上のアルフレッドの手を両手で包み、笑いかけた。
「それでしたら、この場所はうってつけです。思う存分、のんびりと草花を堪能してください。……私も、いつアルフレッド様が立ち寄られても楽しむことができるよう、しっかり手入れしておきますから。心よりお待ちしております」
言い終え、改めて自分の手元へと視線を落としたティアラは思わず目を泳がせる。