光と影2
召使いたちから予想として繰り返し聞こえてきたとある令嬢の名前が、ティアラには強く印象に残っていて、思い出すたび心が沈む。
結局はただの噂なのか、それとも真実か。知るのが怖くて口籠る。
「どうした?」と逆に問われた所で、馬車は邸宅の庭へと入り、小さな噴水のそばで停止した。
小鳥の囀りが響くほど静かだった庭が、今は多くの馬車で埋め尽くされ、着飾った人々で賑わっている。
場所を間違えてしまったかと思えるほどいつもと違う光景が眼前に広がっていて、ティアラは「すごい」と目を丸くした。
屋敷の玄関口はとくに人だかりができていて、目を凝らすとその中心にアルフレッドの姿があった。
艶やかな漆黒の髪、澄んだ湖面を思わせる青い瞳にすっと通った鼻筋、形の良い唇。すらりと高い立ち姿も絵になっている。整った容姿に本人が纏っている品の良さが合わさり、容易く人々の目を奪う。
「あの様子じゃ、今年も挨拶すらまともに出来なさそうだな」
ティアラは頬を染めてアルフレッドを見つめていたが、ラディスのぼやきにハッとし、やがて諦めを含んだため息をつく。
「アルフレッド様にお祝いの言葉だけでもちゃんと言おうって意気込んでいたけれど、やっぱり無理かもしれませんね」
去年一昨年だけでなくその前からずっと、ティアラはあの人だかりの中に割り込んでいけず、悔しい思いをし続けている。
今年こそはと思ったけれどやっぱりアルフレッドは遠く、またダメかもという思いが膨らむ。
おまけに、彼と談笑している同年代の女性の姿に、嫉妬で胸がちくりと痛んだ。
黒の髪を綺麗に結い上げ、豊満な胸を色っぽく際立させた濃い紫色のドレスを身に纏う彼女は、デコルトハイム国南西の地を収めるオークス伯爵の娘。
そして、以前イヴォンヌ家の召使いが予想として名を挙げていた、アルフレッドの花嫁の有力候補だ。
このあと数日でも、アルフレッドがアズミルに滞在してくれたら良いのにとティアラは強く願う。
少しの時間でもアルフレッドと共に過ごせたなら、それを良い思い出としてこれから生きていけるのにと。
先に馬車を降りたラディスから「あれっ」と驚きの声が上がる。
何事かとラディスの視線を辿り、ティアラは思わず息をのむ。人々をかき分けて、アルフレッドが真っ直ぐこちらへと向かって来ていたからだ。
どうしようと狼狽え、心と体が緊張で硬くなる。馬車からなかなか降りれずにいると、ラディスがやってきた相手へと胸に拳を当て敬礼した。
「アルフレッド王子。妹までお招きいただき、ありがとうございます」
「少しは休めたか?」
「はい。お陰さまで、久しぶりに実家でゆっくりできました」
ラディスが口元に笑みをたたえると、アルフレッドも気安い様子で笑ってみせた。
ティアラの父、イヴォンヌ伯爵は若き頃より神童と称されるほどの秀才で、第一王子に勉学を教えていたこともあった。
それもあり、同い年のふたりは切磋琢磨しながら大人になり、同時に友情を育み、今も固い絆で結ばれている。
そしてアルフレッドのひと言で、ティアラの疑問が一つ解決する。
ラディスは三日前に突然、「誕生日パーティーでティアラの護衛をする」と実家に帰ってきたのだ。
どうして自分に護衛など必要なのかと不思議だったが、それがアルフレッドの指示で、裏に体を休めろという思いが込められていたのなら府に落ちる。
仲の良さを羨ましく感じていたが、アルフレッドと目が合い次の瞬間、ティアラは思わず息をのむ。体半分ほど、アルフレッドが馬車の中に入ってきたからだ。
「ティアラ、久しぶりだな。元気そうだ」
至近距離に夢にまでみたアルフレッドがいる。ティアラは突然の事態に頬を熱くさせずにはいられなかった。
国のすべての女性の憧れの的である彼に微笑みかけられ緊張が最高潮に達する中、ティアラはぎこちなく言葉を紡いだ。
「アルフレッド様こそ、お元気そうでなによりです。あの、本日はお招き下さり、ありがとうございます。それから、二十歳のお誕生日、おめでとうございます。素晴らしい一年になりますように」
上手く喋れないことにもどかしさを募らせながらも、ティアラはなんとか言い終える。ふっと笑みを深くしてからアルフレッドはそっと手を伸ばし、ティアラの小さな手をすくい取った。
「ありがとう。俺もそうなったら良いと思っている。今日は来てくれてありがとう」
そしてたっぷりと時間をかけて、アルフレッドがティアラの手の甲へと口付けた。
温かくて柔らかなアルフレッドの感触に心を捕まれ、ティアラは呼吸をするのも忘れてじっと彼を見つめる。
ほんの数秒の出来事でも、甘く鮮やかにティアラの記憶に刻み込まれた。
「また後で」
「はっ、はい!」
目線を上げ、色気たっぷりの笑みを浮かべたその口で囁かれた彼からの言葉に、ティアラはぴくりと肩を跳ねさせつつ、上ずった声で返事をする。
我に返り耳まで真っ赤にしながら俯くティアラにアルフレッドはふふっと小さく笑いかけてから、そっと掴んでいた手を離し、馬車を降りた。
ティアラはアルフレッドの口づけを受けた手の甲へと視線を落とす。
子供の頃に一度手を繋いだ記憶はあるものの、こんな風に触れ合うのは初めてで、驚いたというのが素直な気持ちだった。
しかし、手に残された彼の体温や唇の余韻が、今ごろになってティアラの鼓動を速まらせていく。
そして「また後で」という言葉。今年のアルフレッドの誕生日は特別な思い出を作れそうな甘い期待にティアラは胸を震わせ、ぼうっと小さな窓の向こうへと目を向ける。
そろそろ諦めなくてはいけないと思っていたのにと、彼目当てに集まってきていた多くの人々を引き連れて屋敷へと戻っていくアルフレッドの後ろ姿に淡い恋心を募らせた。
「アルフレッド様、お慕いしております。子供の頃からずっと」
少し複雑な事情の元、ティアラはアルフレッドと出会った。そしてその後、父によって改めて引き合わされた時に、ティアラはアルフレッドが第一王子と知る。
驚きと緊張で上手く挨拶出来なかったティアラにアルフレッドが優しく微笑みかけたあの一瞬で、自分が彼に恋していたことを気づかされたのだ。
箱の外からラディスに「ティアラ」と呼びかけられてティアラはあっさり現実へと引き戻される。「今降ります!」と慌てて座席から腰を浮かしたのだった。
馬車を降りてから両手で足りないほどの人々に呼び止められ、そのたびに兄妹揃って足を止め丁寧に挨拶をする。
父はこの地の領主で位も高く、兄は騎士団の副団長。そのため、多くの人が集まる場でこうなることは避けられないとティアラも理解している。
ふたりの顔に泥を塗らないよう毅然とした態度で接しなくてはと気を遣うのが常なのだが、今回は声をかけてくる相手の意図が少し違い、ティアラの中で戸惑いばかりが膨らみ口元が引きつる。
なんとか屋敷内へと入ったところで、ティアラは後ろへちらり視線を向ける。先ほど入り口の外で挨拶を交わした令嬢が目を輝かせてラディスを熱く見つめているのが見えた。
「お兄様、人気者ですわね」
ここまでの道中、好意を抱いているのがあからさまにわかるほど、何人もの女性たちがラディスを褒め称えてきたからだ。
そして最後は「イヴォンヌ伯爵によろしくお伝えください」ではなく、「ぜひ、ダンスの相手に私を誘ってください」といった言葉が添えられた。
ラディスはわずかに肩を竦めた後、じろりとティアラを見た。
「それを言うなら、お前もだ」
「同じじゃありません。私に対しては明らかに社交辞令で、お兄様へは本気のお願いだってちゃんとわかります」