なんで落ちたのかな
ようやく動き出します
「恋人間で理想とされる身長差は15センチらしいよ」
「先輩って何cmなんですか?」
「確か167だったかな」
僅差ですね。やっぱり先輩は背が高い。背が高くて美人で目立つ。モデルにでもなるのだろうか。
ふと、先輩の彼氏を想像してしまう。仮に先輩より15センチ高いとなると…
「182センチ。バスケ部でしょうか?」
「なんか考察してきたよ。怖い怖い」
僕はほくそ笑んでいた。いや違う。先輩の彼氏を推理してほくそ笑んでいたわけでは断じてない。
でも、表情を観察されると困るので手に持っていた単行本で目から下を隠す。
僕が考えていたのは別のこと。──例の本についてだ。
僕は書棚に目をやる。そこには先程と変わらなく一冊の本がおいてある。奴から渡され、一定時間誰の手にも触れさせないことを頼まれた本。そしてそれは先輩にも気付かれてはいけないことを意味している。
しかし、今のところ先輩は違和感も抱いていないように思う。
──勝敗の天秤は、今のところ勝利に傾いている。
そのはずだった。──このときまでは
「あれ?あの本、なんか傾いてない?」
隣に座る先輩は──例の本を指さした。
「あ─────」
僕は言葉を失った。
僕が奴から受け取って元の書棚に置いた本。それは元通りに置いたつもりだった。けれど僕は重大なミスをしてしまったんだ。──アンバランスな置き方をしてしまうという、最悪のミスを。
パタッ
僕が置いた本はバランスを崩して──音を立てて書棚から落ちた。
「拾わなきゃ」
立ち上がろうとした先輩を手で制す。
「僕がやります」
僕は冷や汗をかいていた。先輩を制したのは、先輩をこの本に近づけると見破られる気がするからだ。
今度はしっかりと本を立てる。また倒れることがないように。
僕がカウンターに戻ると先輩は座ったまま僕の目を見上げて言った。
「ねぇ、なんで落ちたのかな」
ギクッ
『ギクッ』。漫画でしか見たことのない擬態語表現だが、今僕は確かにその音を聞いた。まずい。先輩の疑問はもっともだが僕にとっては非常にまずい。
「……『落ちる』ですか。数ヶ月前まで受験生だった僕には辛いセリフですね」
「おかしくない?あの本は先週もそこにあったよね。それでもずっと落ちたりはしなかった。ならどうして今になって落ちたんだろう?」
うわぉ。華麗に無視されたよ。
僕も疑問を抱かないのが焦れったいのか、先輩は疑問の過程を丁寧に説明してくれる。あのぉ先輩…至極もっともな疑問なのですが、あまり追及しないでもらっても?
「ちょっと再現してみようか」
「それには及びませんよ。きっと誰かが肘でもぶつけてバランスを崩したんですよ」
苦し紛れのありふれた仮説だが、ありふれているだけに否定することは難しいはずだ。
「じゃあそれも含めて再現してみようよ」
そういえば前回の推理対決のときも先輩は「再現」という言葉をよく使っていた。
もしかすると先輩は全ての仮説を頭の中や現実で再現してその真偽を確かめているのだろうか。
先輩は席を立って例の本がある書棚にスタスタと歩いていった。
「ちょ…っ…待ってくださいよ」
僕も席を立って先輩に駆け寄った。
はっきり言って現状はかなりマズイ。先輩はこの本の違和感に気づきかけている。その上、この本に近づいてしまった。手を伸ばせば本を開ける距離だ。
だが幸いなことに先輩は例の本を少し観察すると、隣の書棚に近付いた。そこには例の本がある書棚と同じ高さに同じように本が置いてある。
「例えばこうやって歩いていて…」
先輩は文字通り肩肘張って歩く真似をした。
「こうやってぶつかるとするでしょ?」
「そうですね」
果たしてそんなあるき方をする人がいるのか、そんな疑問が浮かんだが飲み込んだ。苦し紛れとはいえ、僕が持ち出した仮説だから。
「こうやって傾くとするじゃん」
先輩は肘を使って慎重に本を突いた。
「で、バランスが崩れて落ちる」
面倒くさくなったんだろう。先輩は本を押して落とすと、空中でキャッチした。
「さて、さっきの書棚の本と比べて不自然なことが起きてるね」
さっきの書棚、というのは奴が持ってきた例の本がある書棚のことだ。
「なんですか?」
「埃だよ」
先輩は今落とした本があった場所、そして例の本が置いてある場所を交互に指さした。
「今、私が持っている本がおいてあった場所には埃が積もっていないよね。当たり前だけど」
それはそうだろう。何しろさっきまで本が置いてあったのだから。
「あ…」
僕はようやく先輩の言わんとするところがわかった。同時に僕と奴が犯したミスも。
「でも見てよ。もう一方の本の下には薄っすらと埃が積もっているよ」
「つまり…」
先輩は頷いた。
「そう。つまりしばらくの間、この本を持ち出した誰かが居るということだね」
ようやく頭脳戦っぽくなってきます