初動
「はい」
先輩はそう言って、1枚のトランプを机へ出した。
7。
7つの赤いハートが軽妙に絶妙に舞っている。
「微妙なものから行くんですね」
大富豪の原則───3が弱くて2が強い。
だから自然と鉄則は、弱いカードを先に出しておくことになる。
「いいんですか?強いカードがなくなっても」
大富豪の鉄則。
最後に強いものを出す。
「後で出すものがなくなりますよ?」
僕は言う。
先輩の顔を伺いながら。
先輩の表情を見つめながら。
「へえ?心配してくれるの?優しいじゃん」
そして彼女が浮かべたのは挑むような笑顔だった。
不覚にも心拍が乱されるような。
不覚にも瞬きを忘れてしまうような。
「じゃああたしの番か」
龍宮さんがそう言って手札に目を落とす。
先ほどの緊迫のジャンケンの結果だが、カードを出す順番はやはり先輩が一番最初になった。
先輩、龍宮さん、冴月、慧悟、僕の順番だ。
「ほい」
8。
さきほど先輩が出した7の一つ上。
「微妙な数字ですね」
「文句あるのか?死にたいのか?」
「どうして直ぐに僕を殺そうとするんですか…」
文句イコール死って。発想が殺人鬼か殺し屋のそれじゃないか。
「あれ?八切りってつけてたっけ?」
「つけてません。通常ルールですから」
八切りというのは大富豪における追加ルールの一つだ。8を出したら強制的に場が流れる。だからそのルールでは、2やジョーカーに次いで8が最も強いカードとなる。
「私の地元では通常ルールなんだけどな、八切り」
「そうなんですか?僕のところでは八切りなんてそこまで一般的に知られるものではなかったと思いますけれど。なあ慧悟?」
「ああ、俺らの地元では都落ちは必須ルールだったよな」
「嘘つけ、どんな地域だよ。都落ちが必須ルールって」
都落ちとは大貧民が大富豪に勝った場合、大富豪がその席を追われるというルールだ。まあ大貧民が大富豪に勝つなんてことは殆ど無いので、大貧民のモチベーション維持という側面のほうが強くなりがちなのだけれど。
「そういえば、先輩の地元ってこの近くなんですか?」
ふと思い出して訊いてみる。
「どうして?」
「いや、前に帰り道で見かけた事があって」
あの忌まわしき雨の日のことだ。
忌まわしき、と言ってもあの日のことはほぼ完全に僕が悪いのだけれど。とはいえ、仮にもう一度おなじことがあったとしても、僕は全く同じ選択をするだろう。
僕が先輩を騙そうとした日のことだ。
あの十年に一度の大雨の日、僕は帰り道に先輩を見かけた。
雨に濡れながら、自己嫌悪に塗れながら。
僕は先輩を見た。
「駅の方には向かっていなかったので電車通学ではないのかなって思ったんです」
「私も見たよ、雨に打たれてる朽葉クン」
おっと。サラッと酷いことを。つまりその時の先輩は、あの激しいゲリラ豪雨に打たれてる僕に勘づいていながら放置したわけですか。
まあ、その時のお互いの心理状況を鑑みれば、それは至極当たり前で当然のことではあるのだけれど。
「でもそんなに近いってわけではないよ。せいぜい何とか徒歩通学ができる程度だよ」
「じゃあ僕の家からも意外と近いところにあるのかも知れませんね」
ちなみに僕の家もギリギリ徒歩通学ができる範囲にある。
「へえ、じゃあ『早暁』っていう喫茶店知ってる?」
早暁?
確か夜明けのことだっただろうか。
何だその格好いい二次熟語は。
「さぁ?知らないですね」
「そっかあ…じゃあ後で場所送っておくね」
「え……あぁ、ありがとうございます」
ん?
「どうしてですか?」
「決まってんじゃん」
先輩は言った。
まるでそう問う事が愚問だとでも言うように。
「そこでしっかり聞きたいからね─────君のこと」